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-僕の方からも少し質問をしていいですか?。waterkeyさんのテキストを読んでいると文章を書き慣れているという感じを良く受けるんですね。 それは職業的なものなんでしょうか?。 W「実は大学時代、僕は纏まった文章を書いていた時期があるんです。」 -文章を読んでいれば、なんとなく分かります(笑) 「そうですか?。まぁ、正確に言えば脚本を書いていたんですけどね。経済学部だったんですけれど(笑)」 -映画のシナリオのようなものですか? 「大体そのようなものですね。」 -今では、もう書いていないんですか? 「書いていませんね。なかなか、そんな時間もないし。」 -是非、当時のものを読んでみたいです。 「それは止めておきます(笑)」 -残念だな(笑) 「最初はストーリー性の高いものを書いていたんです。何か事件が起こったり、誰かが何かに巻き込まれるような、そんな筋のものを」 -はい。 騙し絵効果について 「でも、段々書きたいものが変わってきた。僕は最後の方は、絵で言うところの騙し絵みたいなものを書いてみたいと思うようになったんですよ」 ー騙し絵ですか? 「なんていうのかな、良くあるでしょう?。じっと見ているうちに別の絵が浮かび上がるようなやつなんだけど」 ーあぁ!。分かります。目のピントがずれると最初とは別の絵が見えるような。 「うん。そういうストーリーが書けないかなぁと随分苦労してたんですけどね。」 ー難しいし、技術が要りそうですね。少なくとも絵でやるより難しそうだ。 「難しいですね。普通に読むと普通に読めるんですよ、でもね、ちょっと視点を変えると-あるいは目の焦点をずらすとーまったく別のストーリーが浮かび上がるような、そういうイメージだったんです」 ーなるほど。 「どうして、そういう面倒なことをやらなければいけないかというと、例えばね、最初の喧嘩の話に戻すと、僕がどんなに切実にその喧嘩の話を“当事者”として誰かにしてみたところで、第三者には伝わりづらいと思うんですよ。」 - 当事者の心境は、分からなかったりしますよね、意外に。 「でも文章の下手な人はね(笑)、事実をありのまま書くんですよ。1から10までという風に、現実的な順番どおり。で、それをリアルと勘違いしちゃう。」 -分かる気がします。 「俺は普通に道を歩いていたんだと、でも向こうから態度の悪いのが歩いてきて肩がぶつかったんだ、とね。それだけの話を、その道に到るまでの、例えば朝飯の話かなんかから始めちゃうわけですよ(笑)。俺は今思えば、朝からツイてなかった、とか言う話からね」 ー あぁ、なるほどね(笑) 「でも、聞いている方は朝飯の話をされようが、どうしようが、その本題の部分、肩がぶつかって、でもそれは向こうが悪いんだということを話し手以上には理解しやしないですよ」 - その通りだと思います。逆に朝飯の話なんかが入ってくると、分かりづらいですよね(笑) 「でも、文章を書いたことのない人に長い文章を書かせたら、ほとんど10人中の10人がそういうのを書いてきます。自信満々に(笑)。余程、文才があるとか何とかしない限りは。僕も最初はそういうのを書いていたんですよ」 - あぁ、なるほど。 「でも、それじゃ、当事者の思いをリアルに伝えることなんて出来ないということに長い文章修行を通じて、気づくわけです。」 -はい。 「じゃあ、どうするかというと、別の物語をでっちあげるしかないわけですよ。例えば海老の味を説明するときに“胡桃のような”とか言ったりするじゃないですか。あるいはワインの味を、ワインとして説明するのではなく、柿に例えて、その渋みを伝えたりしますよね。」 -そうすると分かりやすい。 「分かりやすくなります。そこで、一歩近づくわけですよ。表現する側と、それを受ける側が。胡桃や、柿を通じて、置き換えられたものを通じて。」 -よく分かります。 「僕は表現はそういうものだと思うんですよ。写真でも、絵でも、小説でも」 -なるほどね、深い話です。とても面白いですね。 リアリティーな表現 「それが騙し絵の効果です。つまり、本当に伝えたいことは、そのまま書かずに、何かに置き換える、というのが、つまり、その面倒なプロセスが物語ではないかと僕は最後に思うようになったわけです」 -でも、そこまで辿りついた時点でもう書けていたのと同じように僕は思いますけど。 「何故、こういう話をしたかというと写真も、そんなところがあるのかなぁと僕は思うんですよね。というか表現全般に言えるんじゃないかと。その騙し絵の法則みたいなものが、表現の深みなんじゃないかと。」 -写真もそういうものがないと面白くもなんともないですね。 「入りやすさとか、分かりやすさは必要だと思うな。逆に言うと大衆性みたいなものがなければ、表現は駄目だと思うんですよ。難解なものは偽物だと僕は思うし。でも、分かりやすさで終始してしまう表現では、何にも伝わらないですよ。例え、楽しく鑑賞できたとしてもね、心に残らない。だから、入り口は分かりやすく、中に入るほど深いというのが、僕は本物なんじゃないかな、と思います」 -確かに、入りやすさというのは大切な要素ですよね。ぱっと見て、良くなければ見る方は中のほうまで入ってきてくれないわけですから。 「そうだと思います。これは僕のほうからの質問になりますが、あなたも、そういう目の焦点がずれると別の見え方をするもの、みたいなことを考えたりしていないですか?。僕はそれを強く感じるんですよ。写真を見ていて」 -言葉として、そういう風に認識はしていなかったですけど。でも、僕は滑稽さみたいなのは結構意識しているかな。なんだろう、本人はいたって真面目なんだけど、真面目なだけに、そこに可笑しみがあるようなものとか。あとは、やっぱり孤独なものに強く惹かれますよね、被写体として。東京の街は、そういうものが不思議なくらい、沢山そういう被写体が転がっているから。 「東京は一人で歩いている人が多いですよね。特に東京でも都心部というか、ビジネス街みたいな場所については」 -それから、渋谷や新宿なんかも全然別の街ですけど、若い人が多い場所だし、彼らは群れていたり、皆で何かをしているんだけど、なんか孤独な感じを受けるときがあるんですよ。あっ、僕と同じようなことを思ったりしているな、この子とか。僕は結構思います。 「そういうとき、彼らにカメラを向ける?」 -そうですね。僕は撮りに行ってますからね。撮る題材を探して、カメラをぶら下げて、ふらふらしているわけですから。題材があれば撮ります。 「声かけたりしますか?。僕は半々。でも、声かけると意味がないみたいな人が中にはいるじゃないですか。カメラ目線はいらないというか」 -悦に入っている人とか。公園なんかだと踊っている人とか、そういうのは出来れば黙って撮り去りたい気がします。でも、僕は結構声かけちゃいます。それで、暫く待っていますね。 「向こうはカメラを向けられて意識していませんか?」 - そういう時は一枚くらい、とりあえず撮っておきます。でも、その後で自分が撮りたい瞬間が来るまで僕は結構待ってますね。 「あぁ、なるほどね」 -向こうも暫くは身構えているんだけど、段々、意識がカメラから離れてきますから。その瞬間に撮っちゃいます。 「そういう風に撮っているんだね」 -僕はそういう撮り方をすることが多いです。 「写真を通して、あなたの写真を毎日見ている人に何か言いたいこととかありますか?」 -うーん。なんか、あると思いますね、写真を見てもらいたいのは、やっぱりなんかがあるんだと思いますよね。 「なるほどね。セルフポートレートを撮ったりはしないですか?」 -あまり、しないですね。 「(笑)。写真を撮ることと、自分を表現することは同じ意味合いですか?」 -どうかな、別なような気もしますね。撮ること、そのものに自分が興味があるから。わからないですけど。 「なかなか崩れないですね(笑)僕は角度を変えて同じ質問を三回繰り返したんですけど。あなたの写真の主人公は、誰なんだろう?ということについて。でも、あなたは全然崩れないですね」 -そうですかね(笑) 「撮っている自分は写真には写らないですけど。写真を撮ったのはあなた自身なわけですよね。でも、被写体は常に移ろっているわけだから。常に同じ対象を撮っているわけじゃないから。そうすると連続的に写真に関わっているのは、あなただけじゃないですか。」 -そうですね。 「そういう意味で被写体は、自分自身なんだろうか?。というのを直接的な質問をせず、問いかけてみたかったんです」 -あぁ、なるほどね。それは確かに僕自身を表現することになりますからね。 「でも、良いです、もう。誘導尋問みたいになっちゃったし(笑)。でも、どうして、こんな風に写真を“撮る羽目に”なったんだと思いません?」 -時々、思いますね、何のために撮っているんだろう?とか。 「カメラは重いし、街を歩くのは足がしんどいし(笑)。それでも、飽きもせず写真を撮るのは何でなんだろう?」 → 次回へつづく ■
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by waterkey
| 2006-08-22 21:03
| 対談集
異国感とでもいうべき感覚 W「僕はあなたの写真を見て、いつも感じるのは異国感なんです。なんていうか、上手く言うことは出来ないけれど。 そして、僕ははじめから、あなたの写真に限って言えば、その異国感のようなものに惹かれているんですよ。でも、それは何だろう。日本を外国のように映すというコンセプトによるものではないだろうし、絵の切り方※や色の扱い方によるものでもないと思うんだけれどね。ましてや、あなたの写真は殆ど白黒で撮られているわけだから」※この場合、絵のきり方とは構図をあらわしている。 -面白い指摘だと思います。それは日本的な情緒みたいなものに乏しいということなんでしょうか?つまり、僕という人間の中で。 「そういうのも少なからずあるんじゃないかな。でも、僕が思う異国感というのを仮に定義すると(笑)、例えば、フランツ・カフカという作家がいるんです。」 ー名前は知っています。でも読んだことはないですね。 「今度読んでみるといいです。そのカフカという作家は、たとえば目の前で行われている情景を“他人事”のように克明に記述していくんです。まるで俯瞰から見ているような感じで。殆ど情緒というものが含まれていない、現実的な筆致で。 でも、たとえば、僕らの場合、誰かに今日あったことを話したりする時なんかに、どうしても自分の感情を含めて話しますよね。」 -話しますね、うん。 「例えば、誰かと喧嘩をしたとする。他愛ない口喧嘩みたいな諍いをしたとする。でも、当事者の“僕”は、その相手との関係性みたいなものを鮮明に相手に伝えようとするがあまり、いろんな脚色をしてしまうと思うんですよ。つまり、自分と切り離したところで、冷静な視点で相手のことを語るというよりは、よりオーバーに。なぜなら、僕らは誰かと喧嘩をしたんだよ、ということを客観的に話したりしないですよね。感情があるから。でも、そうすると人が見ていることを前提にした変な日記みたいになる(笑)」 -それは、やっぱり同情をして欲しいし、味方になってもらいたいから(笑) 「そうですよね。でも、その場にいて喧嘩を目撃していた他の人にしてみれば、なんか良く分からないけど、お互い様だなとかね。(笑)全然、僕の感情と別の視点で見るわけだから。でも、その別の視点にしたって、まだ高さとしては低いんです。 本当に喧嘩を冷静に見て、判断できるのは、うんと高い位置。例えば神様くらいの俯瞰くらいからじゃないと中々、公平には見れないと思うんです。で、そのくらい高みから見下ろしたら、地上でなんかやっているけど、つまらんことだ(笑)みたいなね。もっと全然、冷静ですよね。公平とかではなく、どこか遠い別の場所で行われていることくらいにしか見えない」 ーつまり、waterkeyさんの言う異国感というのはそういうことなんですね。 「僕の異国感というのは、ある意味では、そういうことに近いのかもしれない。なんていうのかな、つまり、平熱感というかさ、関わりのなさ、みたいなね。とりあえず定義すると。」 ーこれまで、誰かにそういう指摘をされたことはなかったですけど、そう言われて自分の写真を見ると確かにそういう傾向は少なからずありますね。うん。 「で、僕は、そこに凄くリアルを感じるんですよね。写真表現としてリアルだな、と。あるいは、僕らの世代の世界観なんかとしてリアルだな、と。だから僕は-これは批判的な意味で言うわけでは決してないんだけれど、-花のマクロ(接写)写真なんかを見て、そこにはリアルをまったく感じないんですよ。不思議ですよね。被写体にそれだけ近づいて、写真を撮っているのに全然リアルじゃないというのは。」 ーミクロの視点で、被写界深度を深めて、非常にシャープに被写体を捉えているのにリアルじゃないと。 「逆ですよ。何か一つをクリアに写すために、全体の被写界深度は浅くなっているはずです。とにかく大抵のマクロ写真を見て、僕はそう感じる。あなたはどうですか?」 ー深度は逆でしたね。僕も、そう思います。でも、それはどうしてなんだろう?。でも、僕はマクロ写真を撮らないし、そういう表現には向かわないですね。僕が撮りたいのは街だったり、人だったり、そういうものですよね、後は光と影のように、ラインがくっきりしたもの。それからその間にある何か分からない漠然とした空気みたいなもの。 「僕は、マクロ写真がなんでリアルじゃないかというとね(笑)、僕らは日ごろ、あんな風に花を見ないしさ、実際あんな風には肉眼で見えないわけでね。そういうこともあるとは思うんだけど。なんか、どうしてもメルヘン的だったり、幻想的に見えてしまうんだよね、あれを見ると。で、綺麗だなくらいには思うけれど、そういうのが心に訴えかけてくるかというと余り、訴えかけてこないんですよ。」 -分かる気がします。僕は人の写真を見て面白いなと思うのは、やっぱりその人のパーソナリティーみたいなのが滲み出ているような写真なんですよね。そういう意味で考えたとき、確かに花の接写では、なかなか個人の視点みたいなのが、出ていないものが多いような気がします。好みもあるんでしょうけど。 「スナップを撮る人というのは、写真人口の中でも結構少ない人種じゃないですか。テーマ別の人口みたいなもので言うと、圧倒的に少ないですよ。街を撮るみたいなのはね。でも、スナップというのは、一番パーソナルな部分の表現に向いていると僕は思うんですよ。まぁ、好みもあるとは思うけど。」 -確かにスナップというのは追いやられてますよね。脇の方に。(笑) 「異国感というのはね、やっぱり何かそういう、パーソナルなものとの影響関係から来ていると思うんですよ。なんか、ストレンジャーというかさ。」 -あぁ。ストレンジャーか。なるほど。 「凄く切り離されている。でも、それが自分とそれ以外のもの-つまりは外界-という関係で、切り離されているというよりは自分と、自分の心みたいなものの切り離され方という感じを僕は受けるわけです」 -つまり、喧嘩をした相手と自分を切り離して見るというよりは・・・、 「喧嘩をした自分をも切り離している。高い位置なんです、写真の目線が。」 -そういう感じを受けると。でも、それは面白い指摘だなぁ。考えたことなかったです。勉強になりました(笑) 「ちょっと話を変えると、僕は、表現についてはこう思っているんですけど、やっぱり自分が思っていないことや、自分と大きく違うものって長続きしないというか、最終的には『こう撮ろう』みたいな意識じゃなくて、『こう撮れました』みたいに自然になっていくと思うんだけど、そういう意味で、意識が消えてる写真の方に惹かれる傾向があるんですよ。それは人の写真を見る側としても」 ー最近そういう瞬間が僕も増えてます。写真を始めた頃はどうしても写真家の写真を模範したり、どうやったら、ああいう風に撮れるんだろうという意識で、真似る部分が多かったんです。でも、長いことやってきて、そういう気持ちがどんどんなくなってきてますよね。 「距離的には離れたり、近づいたりして位置を変えながら、被写体に向かっているんだけど、被写体に対する姿勢みたいなのが、あなたの場合、無理がない感じがするんですよ、冷静というか。 例えばライオンみたいな危険なものには、ちゃんと逃げれるだけの距離をとっているし、害のない猫みたいなのには、逆に向こうが逃げない程度に距離を保っているような感じというのだろうか?。その距離が自然なんですよ、見ていて安心が出来る。それが、ライオンに近付き過ぎちゃう写真を見ると、こっちが不安になる。手に汗握るというか。変にどきどきして疲れる。そういうのは一発芸としてはいいけど(笑)」 ーなるほど。それも、僕の性格にそういう部分はやはりありますよね(笑) 「僕はそういう撮る側の生理みたいなのが、-距離感と言い換えてもいいけれど-その生理が滲み出てしまうところが写真表現だと思うようになってきたんです。偉そうに言うようだけど。その確認行為に過ぎないんじゃないかって思う。だから写真の道具は僕はわからないんだけど、超広角レンズみたいなのって、そういう意味ではさ、まだ意識が消えてないんだよね。そこに、こだわりを持っているという意識がちゃんと写真には出ちゃうから。そういうところが個性的だとやっぱり見る側は辛いもの」 ー道具については僕はやっぱり信頼感が何より重要ですね。なるべく壊れない頑丈さとか雨に濡れても平気な奴とか。レンズについては、多少好みはあるけど。 「でも、無個性であって欲しいというのはないですか?例えば某社のレンズは、色の乗り具合が独特でみたいな話をされると、僕なんか途端に興味がなくなっちゃう。」 ーそういうのはありますね。あんまりキツい色の出方をするものは避けてます。 「なるべくであれば、レンズは透明なフィルターであって欲しいな。自己主張の激しい奴はいらないというか。全然そっけない感じの無個性なレンズが好きです」 ーそういうレンズって結構高いですよね。プレミア的な価値のあるもので独特なレンズの市場というのは厳然としてありますけど、ちゃんとしたレンズは無個性かもしれないですね。 「風景がそこにあったら、そのまま映る奴がいいんですよ。変に雰囲気を出してきたり、ないものをある風に映し出したり、あるものを削ったりとか(笑)そういうのは、やっぱり長い目で見ると辛いです。」 ー使わないし、使えなくなってきますよね。 「僕は写真を始めたとき、結構レンズを買い集めたんですよ(笑)。初心者なのに、そんなに要らないのにね。もちろん中古の安い奴だけどさ。 で、今はどんどんレンズを減らしている。外れていくのは大抵、個性が強い奴とか、そういうのはもう全然使わなくなってる。愛着が沸くのは、不思議な話だけれど普通の奴だけなんですよ」 ーレンズは僕も、そんなに持ってないですよ。 「で、たぶん、それは僕が道具にはそんなに興味がないと言うことなんだと思うんだよね。」 ー道具だけで写真を撮るわけじゃないですからね。 「それで、徹頭徹尾、僕の意見を言わせて貰うと、あなたの写真はとても孤独な感じがします」 - はい。 対談つづきへ ■
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by waterkey
| 2006-08-21 21:50
| 対談集
はじめに。 以下は人気ブロガーとインターネットを通じて、半年間に掛けて僕が行った対談の内容である。 元々は公表を意図したものではなくて、言わば個人的な親交のようなものから始まった。 最初のきっかけは、僕のホームページへの※コメントであったわけだが、少しして電子メールで、またはヤフーメッセンジャーでやりとりを始めることになった。 ※(そのコメントについては、今回この記事を発表する上で匿名でやりましょう、という彼の希望から削除することにした。したがって、このホームページの何処にも彼が誰であるかを特定するものはない。当然に、彼の写真を商用として宣伝する意味も何処にも含まれない。) 長い時間に渡って、電子メールで往復書簡のように連絡を取り合い続けたことについて言えば、僕は彼に興味を抱いていたし、彼もまたおそらくは僕に何処かで興味を抱いていたんだと思う。 (そうでなければ誰が長い時間を掛けて半年間も、メールでやりとりをするというのだろう。) そして、そのやりとりはどちらかのブログにコメントを通じて、やりとりするというよりは“非公開で”“個人的な”電子メールでの送受信に向いていたんだと思う。 僕は最初の数回のメールのやりとりを通して、彼に、まともさと知性を感じるようになり、同時にそのメールの文面から、物静かで謙虚な彼の好ましい性格の印象を受けた。 彼の方が僕より少しばかり年下ということもあって、いつしか彼のみが敬語を使うような形になっていったわけだが、僕は“タメ口”を遣わさせて頂きながらも今では、彼には尊敬というか、ある種の敬意を抱いている。 そして、僕にとってそれは結構珍しいことでもある。 というのも僕は結構、他人の嫌な側面を見がちな傾向が少なからずある人間だから。あるいは別の言い方をすれば、他人のことを楽観的に全面的肯定をしたり、悲観的に全面的否定をしたりする偏った判断をすることの殆どない人間であるからして。 でも、僕が彼に興味を抱いたのは、彼の知性や謙虚さではなく、(結果としては)彼の物静かさの裏側にある、強い野心と、癒されることのない孤独な心のありようにあったように思う。 そして、頭の良い人間が大抵そうであるように彼は簡単にはそうした自分の内面を悟られないように随分と注意深く配慮していたし、そこへたどり着くまでに僕は、薄暗い長い廊下をずいぶん長いこと歩き続けなければならなかった。 僕は思うのだけれど、人というのは何枚もの借り物の衣服を、知らず知らずその身にまとって生きているのだと思う。 そういう意味で僕は、例えば結構タフで分厚い皮のジャンパーを纏っているし、彼はふわふわとしたカシミアのコートを纏っている。彼は柔らかく軽やかな服を着て、ひょうひょうと陽の当たる大通りを歩きながら、街を流れる風の冷たさと、その無慈悲で、残酷なシステムのことを、ちゃんと意識している。 全然楽観的ではないし、イノセントでもない。高いインテリジェンスと、その結果として沢山の荷物を引き受けてしまう傾向を有している。 僕らを包む空気はある意味で、同質の冷たさを有している。 僕は皮のジャンパーのファスナーをしっかりと閉ざし、その凍てついた空気に凍えてしまうことのないように、誤って風邪を引いたりしないように注意深く通りを歩く。 彼はふわふわと柔らかい上質なコートを纏いながらも、その下にある脱ぎ去ることの出来ない鋼の肉体を誰に悟られることのないよう、僕と同じようにある意味でしっかりと身を隠している。 僕らはそういう意味で何処かお互いの一番下に来ている衣服(それは肉体を意味するわけだが)のそのまた、内側にある何かに同質性を感じ、呼応関係にあるように思う。 古風な言い方を許していただければ、友情というものの心持ちにとても似ている。 僕は長く薄暗い廊下を何処かへ向けて歩きながら、何度も右に曲がったり、左に折れたりしながら人間存在の奇妙さと、その不思議な奥深さのようなものについて考えることになる。 僕らが誰かの心のうちに、その深い泉の水際に触れようと願うとき、そこに到るまでの長い道のりを思う。 僕らが、他人を理解するということはとても難しく、その衣服が(外側の衣装が)語ることの少なさを知り、その衣服の下にある硬い鋼のような肉体や、柔らかい心持ちを知る。 そして、僕らはそのような邂逅のために沢山の誤ったドアノブに鍵を差込み、見当はずれな部屋のベルを鳴らし続ける。 あるいは、こうも言える。僕らはそのようにして、長い廊下の向こうにある誰もいない部屋で訪問者を待ち続けている。 彼の写真は、硬質で、無機質であると同時に、とてもメッセージ的な印象を受ける。 写真としては、「分かりやすい」タイプのものだと思う。少なくとも、分からない人には絶対分かるまいという受け手を選ぶような変な気難しさは微塵も感じさせない。押し付けがましくもないし、何かを交換することを求めてきたりもしない。この事を人間の類型で考えれば、分かりやすいと思う。それは、とても好ましい人物だろう。 構図に対しては、とてもナチュラルだ。へんな“凝り”“こだわい”がなくて、疲れない。 使用しているレンズの種類もおそらく2本から3本程度だと推測する。もしかすると一本で撮っているかも知れない。 そういう写真を撮っている。少なくとも受け手に機材や、フィルムの特性を感じさせたり、頭を捻らせるような種類の個性は全て消し去られている。 彼は殆ど自分の目線で写真を撮っている。花だからといって、しゃがみこんで撮ることもなく、動物だからといって自分自身も四足になった高さで撮ることもないし、高いビルを同じ高さまで上って、撮ることもない。いつでも、自分の高さを一定に撮っている。 そして、人を疲弊させるタイプの「思い込み」や「思い入れ」が被写体に向けられていない。 動物を擬人化することもなければ、何かに自分を依存しているような“湿り気”もない。 そうした変な意識みたいなものを細分化させ、薄めることで、飛躍的に、普遍的な目線を得ているのだ。 彼の写真の一つの特性は、そういう意味では天性の(人間的な)バランス感覚にあるのだと思う。そのバランス感覚の真っ当さが、非常に良く出ている。それはやはり天性のものだとしか言いようがない。 そして、その一貫したスタイルが、彼の写真の生理なのだと思う。 被写体は、人と街が多い。でも、彼に撮られた風景もまた何だか、とても無機質な感じがする。 上手くいえないけれど、現実の人が持つ“あく”のようなものは彼によってフィルタリングされ、そこに残っているのは、静けさに満ちた佇まいのようなものだけだ。 硬い果実の皮を剥いて、柔らかい果汁に満ちた生の果物を表現するために、彼は、おそらくそうした手法をとる。あるいは、人が往々にして身に纏いがちな不似合いな衣服を一枚づつ脱がしてしまうように。 それから、そこに映し出されているものに日本語の標識が写っていようと、日本人が写っていようと、もっと言えば僕が良く知っている東京の街並みを撮ったものだろうと、不思議な異国感がある。 異国感。それは白黒で撮ることとか、彼が世界の多くの異国を仕事柄訪れていることだけの理由ではあるまい。僕は彼の写真を見るたびにその“異国的”な風景に深く関心することになる。 これは一体どういう技法で、このようなアクのない、それでいて奇妙に心打つ写真になるのだろうと。 表現が、あるいは表現のための行動が、芸術と呼ばれるものに昇華されるために、あるいはそれが酷く美しく、デザイン的で、強いインパクトを有していても芸術になりえないところで終始してしまう表現と袂を分かつことについて、僕は多くを語ろうとは思わない。僕は別に評論家ではない。 だから、それは才能という言葉でひとまず、話をつけておくしかないような気がする。 僕は、彼の“異国感”と言うしかない世界の映し出し方に、ひどく惹きつけられる。そして、それは連続的に1つの一貫したボディーブローを受け手に、- 辛らつで現実的で、言葉を選ばずに言えば純粋な野心に満ちた - 彼の好ましい謙虚な人柄と裏腹な、きついメッセージを与え続ける。 彼の作品が、その入り口で示す開かれた、物分りのよい表情とは別の、限定的で、荒削りでワイルドな切れ味の鋭い刃物のような力強い思い。 僕に向かって、誰かに向けて、あるいは彼自身に向かって。 写真表現の主人公は誰なのだろうか?。 なぜ、それほどまでに写真を撮るという行為に魅せられてしまったのか。 風景に何を見ているのか。 そうしたことについて、遠慮なく語り合っている。写真表現を超えた別の読み物としても、なかなか面白い話し合いになっていると思う。以下がその全貌である。 ( 次回へ続く ) ■
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by waterkey
| 2006-08-19 21:10
| 対談集
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