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借り物の衣装
前に何処かで、“借り物の衣装”についての記事を書いたけれど、
僕はしょっちゅう、借り物の衣装を着ているような気持ちになります。

つまり、今ここで何かをしている自分がいて、そういう自分と廻りに誰かが
いる時の自分は何か別の存在に思えるようなことなのですが、
そういう気持ちが一般にどのように捉えられているのか僕はよく知りません。

ただ僕が漫然と感じていることは、そういう衣装が年を取ると共に増えてきた
ようだな、ということです。
あるときの僕はやたらシタタカだったり、またある時はとてもウッカリしていたり、
はたまた、誰かの前では変に強がっていたり、涙脆くなったりするのも人情というわけで。
それは何もアイデンティティがどうした、とか、そういうヤヤコシイ話をしたい
わけではなく、相手に合わせて自分というのは結構変化するものだということなのです。

恋に落ちたりなんかすると、人は誰それの前では自然でいられるなんてことを
口にしたりします。
自然な自分ってなんだろうっていうと、つまり「そのように在る自分が好ましいこと」
ではないかと、ふと考えたりします。
つまり、誰それの前における自分は、他の誰それの前における自分より何だか、
好ましいということですが、これは何ていうか世間一般に言う気が合うとか
気が合わないといったことにも何処か繋がっているようです。

本当の自分、というのはあくまで「そのように(誰かの前で)在る自分が、
自分自身で思うところの自分自身に近しいと感じる」ということであり、
人は結構、そういう状態に気持ちよさを感じたりする生き物であるようです。

で、僕は外にいる間じゅう、なんとなく自分は借り物の衣装でも着ているように感じる
わけです。

つまり、「自分自身で思うところの自分」というものを一先ず、熊の縫いぐるみか何かで
完全に包み込んで、縫いぐるみの内側から、誰かと話したり、息をしたりしていると
いうわけですが、観察していると社会とは概ね、そうしたことで成立している部分も
少なからずあるようで、大袈裟に言えば僕はそう感じるわけですが、これは一体
どういうことなんだろう?と時々考えます。
誰かが分かりやすく、そのあたりについて論文でも拵えてくれれば助かりますね。

分厚い縫いぐるみを脱いで、分かり合った!なんて思っている自分もまた、しっかり別の
薄手の縫いぐるみを着ていて、実は対する相手も縫いぐるみを分厚く着ているなんて
ことは世間にはわりと良くあることで・・・。
そのあたりについて深く考えていくと、分かり合うとか、分かり合えないとか、そういう
大きな問題にほんの少し近づくことが出来るのだろうか?
僕らは自我とか、自分とか、考える時に、つまりは「お気に入りの縫いぐるみ」について
考えているようなものではないか、と僕は学者的に一先ず考えてみたりするわけです。
えっへん。

それで、外見とか中身とか、そういうものについて熱心に話をする時、人は結構、そういう
お互いの縫いぐるみについて批評したり、褒めあったりしているに過ぎないのではないかと。
ははぁん、そんなに簡単に心は開かないぞ、なんて思ったりしながら。

それで僕は思うわけですが、誰かの寝顔や、あどけない馬鹿みたいな笑い顔に
不意打ちで、心打たれたりする時、人は案外、不用心にも縫いぐるみを脱いでいたり
するのだろうか?、などと思います。
ある人の寝顔を思いがけず見てしまって、ふとそんなことを思ったわけですが、
今のところ、これといった役に立つ結論は出ていません。
by waterkey | 2007-06-25 23:46 | 文章



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