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<< 円を跨いで、前に進むこと
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序 >>
異国の地を訪ねたことのある人には分かるかもしれないが、他に日本人の一人もいない場所で 感じる不思議な、あの安堵感というのは一体何なのだろうと僕は思う。 僕は背が高くて目立つせいか、東京駅で電車を待っていると成田行きの列車を待っている外国人に良く声を掛けられる。 僕の英語はかなりいい加減だけれど、僕は彼らとなるべく会話をするようにしている。 おそらく二度と乗車することのないタクシーの運転手に、“本音”を語るような心境で、僕は彼らと必死でコミュニケーションすることを試してみる。 ジェスチャーや表情を含めれば、僕らはそれほど苦労もなく国境を越えて、心からの笑顔をかわすことも出来る。 しかし、それとは反対に毎日顔をあわせ、同じ言語を操る日本人にどうしても真意が伝わらず、誤解をしあって、ある場合には口を利くことも億劫になるような経験も僕らは同時にしている。 分かり合うことにどのくらいの前提条件が必要なのだろう。 分かり合うためには、分かり合うことは殆ど不可能だ、という自明性(あるいは諦め)が必要だ。と僕は感じているのだが、この言葉を何人の人が共感を持って頷いてくれるだろうか。 僕は日本的なウエットさが苦手だ。 お前と俺は、みたいな暑苦しい関係性がとても苦手だ。 そのような関係には何処か、いつでも不自然な甘えがあるような気がしてしょうがない。 僕が旅を希求する、と宣言するとき、そこにはいつでもstrangerの感覚がある。 そして、僕はそのような感覚が持てる人であれば、駅のホームでただの一回、偶然に出会った 異国人であろうと刹那の友情を感じることが出来る。 ある日、僕はどうしても旅に出たくなった。 そして、それは誰にも止められない気持ちであることを僕自身が誰よりも分かっていた。
by waterkey
| 2006-07-17 22:46
| 旅行記
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