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普遍について
行きすぎた主観性と自分すら切り離してしまう客観性というのは
実は殆ど同じようなものではないかと最近になって思うようになった。

わかりやすく言うと自分の話ばかりしている人と、他人事みたいに自分を
語る人は実はほとんど同じことをしている。


ジャニスジョップリンという歌い手がいて、僕は若いとき、彼女の歌が苦手だった。
その濃い生き様を反映した“歌”は私小説的にずっしりと重く、自我にまみれた彼女の
歌に僕は普遍性を見出すことが出来そうになかった。
ジョンレノンについても、僕はほとんど共感できなかった。
ビートルズのメンバーで、ロックンロールの伝説の人で、若くして撃たれて死んだ。
その人の歌もまた、心の悲痛な叫びのようで、聞くのが苦しかった。

なんていうか私小説的アプローチに芸術性を感じるように僕自身が生きてこなかった。
そういうのは単なる自虐だろうよ、と僕は決め込んでいた。
自分の生活を量り売りして、金を稼ぐロックスターに唾を吐くように。

今では大分それと異なる考え方をしている。
芸術家というのは時代の病の罹患者なのだ。
クイーンのフレディーがHIVで命を落としたように、芸術というものは
それを宿した肉体を物理的精神的に焼き落す。

誰かが自分のエゴについて嘆くとき、人は主観性を論じ、批評する。
しかし、薄い皮一枚で世界と隔てられている僕らにとって世界とは
エゴの拡大図とそう変わらないはずだ。

自分というものを遠く離れ、僕らが口に出来る単純な言葉は、一体なんだろうか?
普遍性というものは、自分の足元を掘り下げて、自分の暗闇に気づいた後で
人が偶然に通過するトンネルの向こう側にあるものだ、と僕は思った。

僕は、誰かの言葉を理解しようとするとき、誰かのいる“そちら側”へ行くことを考えていた。
でも、僕は今では全ては“こちら側”のものだと考えるようになった。

例えば、人は個人的な辛い思いを体験する。
それは何処からやってきたのかと考える。
それは、自分の内側が招いた何かだ、と考えることは危険なことだろうか?
歩いていて、空から降って来る雨のように不幸は訪れるだろうか?
自分と、自分の心に距離を保つことに対する呪いや教え。
冷静に。客観的に。でも、それは僕らを何処へ運んだのだろう?

僕は個人的な人間として、長いこと、そのような命題 -それは僕にとっては
小さくない疑問だ-を抱えていた。

ある日、僕は旅に出た。

それは、自分の足元で僕自身をずっと規定してきた何かから遠心力でとことん
逃げ切ってしまいたい、という思いから始まった旅である。

僕は、他の誰かと僕が全然違うように思ったり、僕と誰かが殆ど同じであるように
感じたりしながら、沢山の風景を見つめ、沢山の人々と話をした。
膨大な風景。それは塵のように積もって、僕の心の中を過ぎ去っていった。

僕は、遠い街から、はるかな思いを届けようとしてくれる優しい手紙について
考えるように主観的であることに意識的になった。
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# by waterkey | 2008-04-24 23:56 | 文章



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