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コップの中に宇宙はあるか
隣町の住宅街にとても雰囲気のある蕎麦屋がある。

時々、夕方の五時頃にそこに思い出したように蕎麦を食べに行く。
ほとんど道楽商売のようで客はいつもあまりいない。

天井のJBLのスピーカーからは小さな音でJAZZが流れていて、
店内はご主人のこだわりが随所に散りばめられている。
一枚板のテーブルで蕎麦が出てくるのを待ちながら、突き出しの
蕎麦のフライをお菓子がわりに、黙ってお茶を飲み、その不思議に
整然とした小さな世界の中で蕎麦を待つ。

誰かの頭の中身みたいに、その小さな空間はご主人の好きな世界観
が見事に体現されていて、その居心地の良さの中で僕はぼんやり
蕎麦を待つのが好きだ。

そして蕎麦は奇跡みたいに美味い。
計算しつくされたような、その完全な職人芸に僕はいつも満足して
帰ってくる。
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by waterkey | 2008-06-22 15:36 | 文章
失う
意味というものは、なにかそれが自分にとっては非常に重要と感じる
心の動きの1つの形態で、時々、僕らはそのようにそれが他の何かと
完全に別であると感じ、そこに注意を注ぎ、それが何故特別なのかを
見極めようとするときに生じる価値観だと思う。

で、結果としてそれが1つの幻想だとやがて知ることになるようなとき、
夢から醒めて、なんていう言い方をしながら、それ自体がとても美しく
詩的に心の中の泉に雨粒が波紋を描くような静かな音を聞く。

去ってゆくということ。やがてそれが特別でなくなってゆくことなどは
殆ど僕らにとって絶望にも似ていて、物語というものはそこから生まれ
るように思う。
物語。われわれはそれぞれの物語を生きていて、それは簡単にいえば
混沌や魂の揺れを防ごうとする心そのものの防衛機能であり、
何故そのように物事は進んでしまったのかについて、何か1つの理由づけ
を求めなければ、われわれは自分を喪失してしまうことになる。

僕らが生きている物語は深海のごとく深い心に降り積もった、そうした
いくつかの意味、あるいは意味の喪失が地底から浮き上がって束の間
はじけようとする「あぶく」のそのまた小さな残骸にすぎない。

雨ふりを眺めていると、僕にとって特別だったもの、かつて、他のものと
まるで違うと信じようとしていた何かについて思いがつらつらと溢れてくる。

そしてそのような幻想はある種の偶然性の中で、虹を眺める詩的な心の
ありようのように、二度とは帰ってこないのだと知る。
世界の深淵。僕はひっそりと静かな気持ちの中でそのようなことについて
一人ずっと考えてみる。
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by waterkey | 2008-06-22 15:19 | 文章
可能性
そうであったはずの自分、あるいはそうであったかもしれない可能性としての自分
について検証していくことと文章を書く事というのは基本的に似ていて、僕は時々
それについて考えてみる。
それで物語を書くということは、そうであったかもしれない可能性としての自分に
ついての記憶を掘り起こしていくことなんかと何か関係があるらしい。

記憶。

あるいは記憶を呼び起こす言葉と、言葉につられてやってくる可能性としての風景。

僕は時々、それについて考えてみる。

ある女性と話をしていて(彼女はとても美しい顔をしている)、僕は彼女の表情や
笑い方や時々ひどく深刻そうに黙りこむ一瞬の顔つきやらを見ながら、どこか
遠い場所で眺めた雨について思い出していた。
その雨について僕はなにか重要な可能性としての記憶があることを感じる。
でもそれは彼女にはまるで関係のないどこか別の場所で降り続けている
抽象的な雨にすぎない。

可能性。たまたまそうであったのか、あるいはいくつかの偶然が(それもせいぜい
2つ3つにすぎない)たまたま有機的につながって選ばせた選択肢なのか、
1つの可能性の飽和として僕は、いまここにいてこうして文章を書きながら
何か別の可能性について考えてみる。

どうせ書くのであれば、なにか自分すら完全に性質を変えてしまうようなもの。
文章にはそういう力があるはずで、僕はそれについて考え、雨について考え、
非現実的に美しい顔つきをしている若い女性と大して膨らみそうにないあいまいな
会話をつづけていた。

そうであったかもしれない、という仮定を過去へと進んでゆく霧の中の船の
ように心の中で確かめてみること。物語はそこから始まる。
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by waterkey | 2008-06-07 13:56 | 文章



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