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カテゴリ:文章( 11 )
揺れ
門前仲町というのは時々行きたくなる町だ。
ぶらっと地下鉄で出かけて行って、誰かと路地裏の小さな居酒屋で飲む。
多く語る人とも、あまり語らない人とも夜は均等に更けてゆく。

この一か月が僕にもたらしたものは、言葉の喪失のような感覚だった。

世界が揺れた。僕らはその亀裂のうみだした混乱の中にいて、倫理は右とも左とも
行く方向を示せずにいた。
言語化することは、そこまで素敵なことではないのかもしれません、と誰かが言った。

脳は常にモヤモヤしているものだ、ともその誰かは言う。

僕はまだ結論をだすことができずにいる。
15年前の激しい揺れが僕にもたらしたもののことですら僕には言語化できていないのだ。

雨のあがった夜の路地裏で、僕はまだ揺れの中にいる。
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by waterkey | 2011-04-10 01:36 | 文章
夢から醒めて
通い合った心が醒めて、元の鞘におさまるように、すれ違い、離れていく瞬間はもちろん
苦しい。
そういう経験はするほど良いのか、出来れば、なるべく数少ないところで神様に手を打って
もらうのか、どちらが人間にとって素晴らしいのか僕にはよくわからない。
でも僕らは「いま、心が触れ合っている」と感じることができるし、「相手の(あるいは
自分の)心が離れていっている」と感じることもできる。
男女の恋愛について、僕はこれだけは男女はそれを共有し、分かり合っていると思う。
いま、心が通い合っている、という幻想は幻想ではなく、やはりある種の現実である。
自分が相手のことを考えているとき、相手から連絡があったり、そういう時って心の中が
満たされて、「自分にとって大切なものは案外少ないのだ」と実感することができる。

自分の心が醒めたり、相手が他の場所を向いているとき、なるべくならば夢から醒めたくないと
思う。けれども、その時にはかつて共有し、心を満たした、あの感覚はすでに過ぎ去っている予感
がある。
言葉が祈りみたいに響くとき、それは自らの心をまた満たす。そのような感覚の中にいるとき、
不思議と寂しさというものは癒され、通りを歩く時にも自分の心の世界の中にいて、すれ違う
他人になど関心も向かない。

ある日、恋人の心が自分と離れていっていることを知る。そういうのって、どういうわけだか
すぐわかるのだ。昨日、心を震わせた言葉がむなしく響く。交わす言葉に味わいがなくなる。
相手が醒めれば自分も醒めてゆく。そんなの愛じゃないとか言う人もいるかもしれない。
でも、僕にとって、夢とは「いま、心が触れ合っている」と感じ、何かに守られているような
魔法のようなあの感覚でしかない。

人の心は相手次第で膨らんだり、しぼんだり、閉じたり、開いたりする。
時には相手が熱く、時にはこちらが熱くもなる。でも「あぁ、終わった」というのだけは
別物だと僕は思う。
それは努力や、辛抱だけではなかなかどうしようもない感覚だったりするのだ。

かつて自分を励まし、慰撫してくれたもの。
あるいは自分がかつて励まし、慰撫しようとしたもの。
その間にお互いの存在がたとえ一人の夜にでも、何かに守られているような感覚というのは
寂しさを根本から癒してくれる。
人間はそんなにたくさんのものはいらない。大切なのは、自分を励まし、慰撫してくれるもの
を自分もまた励まし、慰撫しようと思う慈しみだけなのだ、と僕は思う。

雨降りの日にも似た生暖かい優しさの記憶は、過ぎ去る瞬間、心を刻む。
それは、魔法が解けて夢から醒める時、いつでも同じように僕を悲しくさせた。
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by waterkey | 2010-09-13 22:17 | 文章
コップの中に宇宙はあるか
隣町の住宅街にとても雰囲気のある蕎麦屋がある。

時々、夕方の五時頃にそこに思い出したように蕎麦を食べに行く。
ほとんど道楽商売のようで客はいつもあまりいない。

天井のJBLのスピーカーからは小さな音でJAZZが流れていて、
店内はご主人のこだわりが随所に散りばめられている。
一枚板のテーブルで蕎麦が出てくるのを待ちながら、突き出しの
蕎麦のフライをお菓子がわりに、黙ってお茶を飲み、その不思議に
整然とした小さな世界の中で蕎麦を待つ。

誰かの頭の中身みたいに、その小さな空間はご主人の好きな世界観
が見事に体現されていて、その居心地の良さの中で僕はぼんやり
蕎麦を待つのが好きだ。

そして蕎麦は奇跡みたいに美味い。
計算しつくされたような、その完全な職人芸に僕はいつも満足して
帰ってくる。
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by waterkey | 2008-06-22 15:36 | 文章
失う
意味というものは、なにかそれが自分にとっては非常に重要と感じる
心の動きの1つの形態で、時々、僕らはそのようにそれが他の何かと
完全に別であると感じ、そこに注意を注ぎ、それが何故特別なのかを
見極めようとするときに生じる価値観だと思う。

で、結果としてそれが1つの幻想だとやがて知ることになるようなとき、
夢から醒めて、なんていう言い方をしながら、それ自体がとても美しく
詩的に心の中の泉に雨粒が波紋を描くような静かな音を聞く。

去ってゆくということ。やがてそれが特別でなくなってゆくことなどは
殆ど僕らにとって絶望にも似ていて、物語というものはそこから生まれ
るように思う。
物語。われわれはそれぞれの物語を生きていて、それは簡単にいえば
混沌や魂の揺れを防ごうとする心そのものの防衛機能であり、
何故そのように物事は進んでしまったのかについて、何か1つの理由づけ
を求めなければ、われわれは自分を喪失してしまうことになる。

僕らが生きている物語は深海のごとく深い心に降り積もった、そうした
いくつかの意味、あるいは意味の喪失が地底から浮き上がって束の間
はじけようとする「あぶく」のそのまた小さな残骸にすぎない。

雨ふりを眺めていると、僕にとって特別だったもの、かつて、他のものと
まるで違うと信じようとしていた何かについて思いがつらつらと溢れてくる。

そしてそのような幻想はある種の偶然性の中で、虹を眺める詩的な心の
ありようのように、二度とは帰ってこないのだと知る。
世界の深淵。僕はひっそりと静かな気持ちの中でそのようなことについて
一人ずっと考えてみる。
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by waterkey | 2008-06-22 15:19 | 文章
可能性
そうであったはずの自分、あるいはそうであったかもしれない可能性としての自分
について検証していくことと文章を書く事というのは基本的に似ていて、僕は時々
それについて考えてみる。
それで物語を書くということは、そうであったかもしれない可能性としての自分に
ついての記憶を掘り起こしていくことなんかと何か関係があるらしい。

記憶。

あるいは記憶を呼び起こす言葉と、言葉につられてやってくる可能性としての風景。

僕は時々、それについて考えてみる。

ある女性と話をしていて(彼女はとても美しい顔をしている)、僕は彼女の表情や
笑い方や時々ひどく深刻そうに黙りこむ一瞬の顔つきやらを見ながら、どこか
遠い場所で眺めた雨について思い出していた。
その雨について僕はなにか重要な可能性としての記憶があることを感じる。
でもそれは彼女にはまるで関係のないどこか別の場所で降り続けている
抽象的な雨にすぎない。

可能性。たまたまそうであったのか、あるいはいくつかの偶然が(それもせいぜい
2つ3つにすぎない)たまたま有機的につながって選ばせた選択肢なのか、
1つの可能性の飽和として僕は、いまここにいてこうして文章を書きながら
何か別の可能性について考えてみる。

どうせ書くのであれば、なにか自分すら完全に性質を変えてしまうようなもの。
文章にはそういう力があるはずで、僕はそれについて考え、雨について考え、
非現実的に美しい顔つきをしている若い女性と大して膨らみそうにないあいまいな
会話をつづけていた。

そうであったかもしれない、という仮定を過去へと進んでゆく霧の中の船の
ように心の中で確かめてみること。物語はそこから始まる。
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by waterkey | 2008-06-07 13:56 | 文章
普遍について
行きすぎた主観性と自分すら切り離してしまう客観性というのは
実は殆ど同じようなものではないかと最近になって思うようになった。

わかりやすく言うと自分の話ばかりしている人と、他人事みたいに自分を
語る人は実はほとんど同じことをしている。


ジャニスジョップリンという歌い手がいて、僕は若いとき、彼女の歌が苦手だった。
その濃い生き様を反映した“歌”は私小説的にずっしりと重く、自我にまみれた彼女の
歌に僕は普遍性を見出すことが出来そうになかった。
ジョンレノンについても、僕はほとんど共感できなかった。
ビートルズのメンバーで、ロックンロールの伝説の人で、若くして撃たれて死んだ。
その人の歌もまた、心の悲痛な叫びのようで、聞くのが苦しかった。

なんていうか私小説的アプローチに芸術性を感じるように僕自身が生きてこなかった。
そういうのは単なる自虐だろうよ、と僕は決め込んでいた。
自分の生活を量り売りして、金を稼ぐロックスターに唾を吐くように。

今では大分それと異なる考え方をしている。
芸術家というのは時代の病の罹患者なのだ。
クイーンのフレディーがHIVで命を落としたように、芸術というものは
それを宿した肉体を物理的精神的に焼き落す。

誰かが自分のエゴについて嘆くとき、人は主観性を論じ、批評する。
しかし、薄い皮一枚で世界と隔てられている僕らにとって世界とは
エゴの拡大図とそう変わらないはずだ。

自分というものを遠く離れ、僕らが口に出来る単純な言葉は、一体なんだろうか?
普遍性というものは、自分の足元を掘り下げて、自分の暗闇に気づいた後で
人が偶然に通過するトンネルの向こう側にあるものだ、と僕は思った。

僕は、誰かの言葉を理解しようとするとき、誰かのいる“そちら側”へ行くことを考えていた。
でも、僕は今では全ては“こちら側”のものだと考えるようになった。

例えば、人は個人的な辛い思いを体験する。
それは何処からやってきたのかと考える。
それは、自分の内側が招いた何かだ、と考えることは危険なことだろうか?
歩いていて、空から降って来る雨のように不幸は訪れるだろうか?
自分と、自分の心に距離を保つことに対する呪いや教え。
冷静に。客観的に。でも、それは僕らを何処へ運んだのだろう?

僕は個人的な人間として、長いこと、そのような命題 -それは僕にとっては
小さくない疑問だ-を抱えていた。

ある日、僕は旅に出た。

それは、自分の足元で僕自身をずっと規定してきた何かから遠心力でとことん
逃げ切ってしまいたい、という思いから始まった旅である。

僕は、他の誰かと僕が全然違うように思ったり、僕と誰かが殆ど同じであるように
感じたりしながら、沢山の風景を見つめ、沢山の人々と話をした。
膨大な風景。それは塵のように積もって、僕の心の中を過ぎ去っていった。

僕は、遠い街から、はるかな思いを届けようとしてくれる優しい手紙について
考えるように主観的であることに意識的になった。
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by waterkey | 2008-04-24 23:56 | 文章
長く更新をしていない、このページですが、訪問者数のカウントを見ると
毎日、何人かが来訪されている。

誰が見に来てくれているのかは良く分からないが、固定ファンみたいな
方が、このページにもいるのだろうか?。良く分からない。

そういうわけで、突如、人前で発言を求められたシャイな少年のような
気持ちで僕はなんとなく、この文章を書き出したわけだけれど、まったく
もって、ノーアイデアである。申し訳ないのだけれど。

そういえば先日、近所の量販店で友人と待ち合わせをしていて、
友人を待っている間、なぜだかサッカーがしたくなって、サッカーボールを購入した。
それで、そのまま流れで近所の小学校にボールを蹴りに行った。

随分と汗を掻いて、お腹が空いてきたので海岸沿いのレストランへ出かけた。
お勧めの牡蠣を食べ、軽く酒を飲んだ。
その後で、マリンスタジアムに行って野球を見てきた。
外野席で、ベンチに横になって無得点のまま進行する試合を眺めながら、
僕はなんとなく、ずっと不思議な気持ちでいた。

帰り道、なんとなく、そのまま家に帰るのも勿体無いような気がして、友人に
銭湯に行こうと行った。
高速道路沿いにある街の銭湯の露天風呂で寝そべると、飾りの笹の葉の
向こうに星空を見ることが出来た。

遠い日の深い秋の日。19歳であった僕は同じような状況で、やはり何処かの
露天風呂で、そんな風に星空を逆上せるまで眺めていたことがあった。

その時、僕は外野席で野球を眺めていたときの不思議な気分が、懐かしがる
感情と良く似ていたことに気がついた。
既に風呂場から上がって、脱衣所の外のマッサージチェアで寝そべり、幸せ
そうに目を閉じている友人に、その気持ちを語ろうと想ったが、辞めた。

25歳も過ぎた頃から僕がなんとなく探しているものは、郷愁とでも言うべき
感情にとても良く似ているような気がする。
それが未来に向かって、歩いていくということと、どのように繋がっているのだろう。

帰り道、風呂上りの虚脱感の中で僕は再び、車のシートに深く寝そべって、
いつか何処かで見たように感じる暗闇の中に星を探していた。
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by waterkey | 2007-08-06 00:10 | 文章
借り物の衣装
前に何処かで、“借り物の衣装”についての記事を書いたけれど、
僕はしょっちゅう、借り物の衣装を着ているような気持ちになります。

つまり、今ここで何かをしている自分がいて、そういう自分と廻りに誰かが
いる時の自分は何か別の存在に思えるようなことなのですが、
そういう気持ちが一般にどのように捉えられているのか僕はよく知りません。

ただ僕が漫然と感じていることは、そういう衣装が年を取ると共に増えてきた
ようだな、ということです。
あるときの僕はやたらシタタカだったり、またある時はとてもウッカリしていたり、
はたまた、誰かの前では変に強がっていたり、涙脆くなったりするのも人情というわけで。
それは何もアイデンティティがどうした、とか、そういうヤヤコシイ話をしたい
わけではなく、相手に合わせて自分というのは結構変化するものだということなのです。

恋に落ちたりなんかすると、人は誰それの前では自然でいられるなんてことを
口にしたりします。
自然な自分ってなんだろうっていうと、つまり「そのように在る自分が好ましいこと」
ではないかと、ふと考えたりします。
つまり、誰それの前における自分は、他の誰それの前における自分より何だか、
好ましいということですが、これは何ていうか世間一般に言う気が合うとか
気が合わないといったことにも何処か繋がっているようです。

本当の自分、というのはあくまで「そのように(誰かの前で)在る自分が、
自分自身で思うところの自分自身に近しいと感じる」ということであり、
人は結構、そういう状態に気持ちよさを感じたりする生き物であるようです。

で、僕は外にいる間じゅう、なんとなく自分は借り物の衣装でも着ているように感じる
わけです。

つまり、「自分自身で思うところの自分」というものを一先ず、熊の縫いぐるみか何かで
完全に包み込んで、縫いぐるみの内側から、誰かと話したり、息をしたりしていると
いうわけですが、観察していると社会とは概ね、そうしたことで成立している部分も
少なからずあるようで、大袈裟に言えば僕はそう感じるわけですが、これは一体
どういうことなんだろう?と時々考えます。
誰かが分かりやすく、そのあたりについて論文でも拵えてくれれば助かりますね。

分厚い縫いぐるみを脱いで、分かり合った!なんて思っている自分もまた、しっかり別の
薄手の縫いぐるみを着ていて、実は対する相手も縫いぐるみを分厚く着ているなんて
ことは世間にはわりと良くあることで・・・。
そのあたりについて深く考えていくと、分かり合うとか、分かり合えないとか、そういう
大きな問題にほんの少し近づくことが出来るのだろうか?
僕らは自我とか、自分とか、考える時に、つまりは「お気に入りの縫いぐるみ」について
考えているようなものではないか、と僕は学者的に一先ず考えてみたりするわけです。
えっへん。

それで、外見とか中身とか、そういうものについて熱心に話をする時、人は結構、そういう
お互いの縫いぐるみについて批評したり、褒めあったりしているに過ぎないのではないかと。
ははぁん、そんなに簡単に心は開かないぞ、なんて思ったりしながら。

それで僕は思うわけですが、誰かの寝顔や、あどけない馬鹿みたいな笑い顔に
不意打ちで、心打たれたりする時、人は案外、不用心にも縫いぐるみを脱いでいたり
するのだろうか?、などと思います。
ある人の寝顔を思いがけず見てしまって、ふとそんなことを思ったわけですが、
今のところ、これといった役に立つ結論は出ていません。
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by waterkey | 2007-06-25 23:46 | 文章
ロストタイム
今日、友達の女の子から最近、更新してないね、とメールを貰った。

音信不通というのは良くない。
そう、それはなんだかとても傲慢である。
というのは、僕の人生時間が時を刻むのと相反して、記事を投稿しない
ここのブログ時間は止まったままだから。
このブログ的世界において、時計の針を進める役目を担っているのは僕である。
責任は全て、こちらにある。(というほどのものじゃないと、突っ込みも聞こえるわけだが)

それでも、毎日、何名かの方がここを訪問なさっている。
そういうのは、なんていうか僕としても少し胸の痛い問題である。
pingを飛ばしてない、このブログに訪れる人はなんていうか古い知り合いのような
人たちなのだろう。

なんとなく、このページを更新することも出来ず、かといって、ブログそのものを
抹消することも中々出来ない。

写真というのは結構、未練がましいところがある。
これについては色んな意見があるとは思うけれど、結局、瞬間瞬間で移ろってゆく
風景を残しておく術はない。
でも、人はそれを残したがろうとする。未練という言葉で片付けてしまうこと。
なかなか出来ないなぁ。

僕がこのブログを始めた頃、僕は結構、色んなことを考えて、それで僕は
なんとなく自分が歩いている道とか、なんでもない風景とか、そういうものを
余所の誰かと共有してみたくなったのだ。
そういう“欲”から始まって、記事を書ける時も(書くときは過剰に投稿していた)
書けない時も、このページは僕の心のどこかにいつも、引っかかっている。

未練。未練。未練。そう未練はとても美しい。

更新?
しますよ、いずれ。そう、それは約束します。
ただ、なんていうか、僕は結構ノンビリ屋で、楽観的なところの多々ある人です。
記事を碌に書かない、こういう時間にも僕にとっての、ここに訪れて欲しい人は
たまに覗きに来てくれているんだろうな、なんてことを性急に更新が繰り返される
このブログ的世界の中で、僕はわりかし気楽に考えていたりします。

いつか、僕がここに前みたいに、易々と記事や見た風景のことについて
話すようになったら、是非、近くまで来て、たまには話しかけて欲しいと思う。

そうそう。雨が続く梅雨時ですが、皆さん、傘をお忘れのないよう。
チャオ。
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by waterkey | 2007-06-10 23:06 | 文章
久しぶりに中判カメラで撮った写真を(これまた久しぶりに)現像に出して、後は結果待ちです。

フィルムで撮る写真は、こういう時期が実は一番心楽しいなぁと想う。

会社の近くのラボ(堀内カラー)はポジのブローニーでも午前中に渡せば、午後には
現像があがってくるけれど、もちろん、その日になんか取りに行かない。

雨が降ったりして、仕事も気が乗らなくて、でもクライアントのところへ行く気にもならない時に
ビニール傘をさして、フィルムを撮りに行く。(というか散歩です)
それで無料のコーヒーをご馳走になりながら、出来上がったフィルムをライトテーブルに乗っけて、鑑賞する。

結構上手く撮れてるじゃないか・・・・。
この花、実物より綺麗に写ってるな・・・・。

こういうのはいい。こういう時間は良い。

フィルムは現像したことなんて暫く忘れられて、熟成する。
写真も撮りにいった日から少し遠ざかって、意味を持つ。
まぁ、年寄りの御託をみたいなものかもしれないが、僕にとってはそうだ。

中二階にあるお店の窓から雨の通りを見下ろし、湯気を立てるコーヒーをすすり、
今も電話が僕を呼び続けているだろう会社について想ったりする。

仕事辞めたいな、と思いながら、僕の撮った写真をしかめっ面で眺める。

僕は大して写真の用語も知らないし、専門的で系統だてた勉強もしていないから、
とてもじゃないけど、芸術がどうのなんて想わないわけだけれど、写真って何かいいな。

ある町の、ある一刻の、僕が瞬間佇んだ、僕の目に焼きついた風景がそこにあるから。
どんな目線でモノを見たかとか、何を考えていたかとか、撮った人にだけ分かる意味みたい
なものを、撮った人としての解釈で勝手に理解するとき、実際の風景を超えた写真の中の
風景みたいなものに、ふいに出くわす。

雨の日に、ざぁざぁ降りの東京の街を遠く離れて、そうやって悦に入る時間。
それは浪人時代の図書館の古い本の香りに包まれた時なんかに、とても似ている。

それは素敵な感覚だ。

僕が写真を撮っていて感じる至福の時は大体そういうものだ。

桜が全部散った後に、あの風景を納めた僕のフィルムを雨に日に撮りに行こうと想った。
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by waterkey | 2007-04-09 21:52 | 文章



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