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2011-04-10T01:36:12+09:00
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気まぐれ更新
Excite Blog
揺れ
http://boomers.exblog.jp/12396928/
2011-04-10T01:36:14+09:00
2011-04-10T01:36:12+09:00
2011-04-10T01:36:12+09:00
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文章
ぶらっと地下鉄で出かけて行って、誰かと路地裏の小さな居酒屋で飲む。
多く語る人とも、あまり語らない人とも夜は均等に更けてゆく。
この一か月が僕にもたらしたものは、言葉の喪失のような感覚だった。
世界が揺れた。僕らはその亀裂のうみだした混乱の中にいて、倫理は右とも左とも
行く方向を示せずにいた。
言語化することは、そこまで素敵なことではないのかもしれません、と誰かが言った。
脳は常にモヤモヤしているものだ、ともその誰かは言う。
僕はまだ結論をだすことができずにいる。
15年前の激しい揺れが僕にもたらしたもののことですら僕には言語化できていないのだ。
雨のあがった夜の路地裏で、僕はまだ揺れの中にいる。]]>
夢から醒めて
http://boomers.exblog.jp/11276312/
2010-09-13T22:17:47+09:00
2010-09-13T22:17:47+09:00
2010-09-13T22:17:47+09:00
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文章
苦しい。
そういう経験はするほど良いのか、出来れば、なるべく数少ないところで神様に手を打って
もらうのか、どちらが人間にとって素晴らしいのか僕にはよくわからない。
でも僕らは「いま、心が触れ合っている」と感じることができるし、「相手の(あるいは
自分の)心が離れていっている」と感じることもできる。
男女の恋愛について、僕はこれだけは男女はそれを共有し、分かり合っていると思う。
いま、心が通い合っている、という幻想は幻想ではなく、やはりある種の現実である。
自分が相手のことを考えているとき、相手から連絡があったり、そういう時って心の中が
満たされて、「自分にとって大切なものは案外少ないのだ」と実感することができる。
自分の心が醒めたり、相手が他の場所を向いているとき、なるべくならば夢から醒めたくないと
思う。けれども、その時にはかつて共有し、心を満たした、あの感覚はすでに過ぎ去っている予感
がある。
言葉が祈りみたいに響くとき、それは自らの心をまた満たす。そのような感覚の中にいるとき、
不思議と寂しさというものは癒され、通りを歩く時にも自分の心の世界の中にいて、すれ違う
他人になど関心も向かない。
ある日、恋人の心が自分と離れていっていることを知る。そういうのって、どういうわけだか
すぐわかるのだ。昨日、心を震わせた言葉がむなしく響く。交わす言葉に味わいがなくなる。
相手が醒めれば自分も醒めてゆく。そんなの愛じゃないとか言う人もいるかもしれない。
でも、僕にとって、夢とは「いま、心が触れ合っている」と感じ、何かに守られているような
魔法のようなあの感覚でしかない。
人の心は相手次第で膨らんだり、しぼんだり、閉じたり、開いたりする。
時には相手が熱く、時にはこちらが熱くもなる。でも「あぁ、終わった」というのだけは
別物だと僕は思う。
それは努力や、辛抱だけではなかなかどうしようもない感覚だったりするのだ。
かつて自分を励まし、慰撫してくれたもの。
あるいは自分がかつて励まし、慰撫しようとしたもの。
その間にお互いの存在がたとえ一人の夜にでも、何かに守られているような感覚というのは
寂しさを根本から癒してくれる。
人間はそんなにたくさんのものはいらない。大切なのは、自分を励まし、慰撫してくれるもの
を自分もまた励まし、慰撫しようと思う慈しみだけなのだ、と僕は思う。
雨降りの日にも似た生暖かい優しさの記憶は、過ぎ去る瞬間、心を刻む。
それは、魔法が解けて夢から醒める時、いつでも同じように僕を悲しくさせた。
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コップの中に宇宙はあるか
http://boomers.exblog.jp/7235650/
2008-06-22T15:36:57+09:00
2008-06-22T15:37:18+09:00
2008-06-22T15:37:18+09:00
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文章
時々、夕方の五時頃にそこに思い出したように蕎麦を食べに行く。
ほとんど道楽商売のようで客はいつもあまりいない。
天井のJBLのスピーカーからは小さな音でJAZZが流れていて、
店内はご主人のこだわりが随所に散りばめられている。
一枚板のテーブルで蕎麦が出てくるのを待ちながら、突き出しの
蕎麦のフライをお菓子がわりに、黙ってお茶を飲み、その不思議に
整然とした小さな世界の中で蕎麦を待つ。
誰かの頭の中身みたいに、その小さな空間はご主人の好きな世界観
が見事に体現されていて、その居心地の良さの中で僕はぼんやり
蕎麦を待つのが好きだ。
そして蕎麦は奇跡みたいに美味い。
計算しつくされたような、その完全な職人芸に僕はいつも満足して
帰ってくる。
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失う
http://boomers.exblog.jp/7235616/
2008-06-22T15:19:50+09:00
2008-06-22T15:20:11+09:00
2008-06-22T15:20:11+09:00
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文章
心の動きの1つの形態で、時々、僕らはそのようにそれが他の何かと
完全に別であると感じ、そこに注意を注ぎ、それが何故特別なのかを
見極めようとするときに生じる価値観だと思う。
で、結果としてそれが1つの幻想だとやがて知ることになるようなとき、
夢から醒めて、なんていう言い方をしながら、それ自体がとても美しく
詩的に心の中の泉に雨粒が波紋を描くような静かな音を聞く。
去ってゆくということ。やがてそれが特別でなくなってゆくことなどは
殆ど僕らにとって絶望にも似ていて、物語というものはそこから生まれ
るように思う。
物語。われわれはそれぞれの物語を生きていて、それは簡単にいえば
混沌や魂の揺れを防ごうとする心そのものの防衛機能であり、
何故そのように物事は進んでしまったのかについて、何か1つの理由づけ
を求めなければ、われわれは自分を喪失してしまうことになる。
僕らが生きている物語は深海のごとく深い心に降り積もった、そうした
いくつかの意味、あるいは意味の喪失が地底から浮き上がって束の間
はじけようとする「あぶく」のそのまた小さな残骸にすぎない。
雨ふりを眺めていると、僕にとって特別だったもの、かつて、他のものと
まるで違うと信じようとしていた何かについて思いがつらつらと溢れてくる。
そしてそのような幻想はある種の偶然性の中で、虹を眺める詩的な心の
ありようのように、二度とは帰ってこないのだと知る。
世界の深淵。僕はひっそりと静かな気持ちの中でそのようなことについて
一人ずっと考えてみる。
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可能性
http://boomers.exblog.jp/7187444/
2008-06-07T13:56:16+09:00
2008-06-07T13:51:45+09:00
2008-06-07T13:51:45+09:00
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文章
について検証していくことと文章を書く事というのは基本的に似ていて、僕は時々
それについて考えてみる。
それで物語を書くということは、そうであったかもしれない可能性としての自分に
ついての記憶を掘り起こしていくことなんかと何か関係があるらしい。
記憶。
あるいは記憶を呼び起こす言葉と、言葉につられてやってくる可能性としての風景。
僕は時々、それについて考えてみる。
ある女性と話をしていて(彼女はとても美しい顔をしている)、僕は彼女の表情や
笑い方や時々ひどく深刻そうに黙りこむ一瞬の顔つきやらを見ながら、どこか
遠い場所で眺めた雨について思い出していた。
その雨について僕はなにか重要な可能性としての記憶があることを感じる。
でもそれは彼女にはまるで関係のないどこか別の場所で降り続けている
抽象的な雨にすぎない。
可能性。たまたまそうであったのか、あるいはいくつかの偶然が(それもせいぜい
2つ3つにすぎない)たまたま有機的につながって選ばせた選択肢なのか、
1つの可能性の飽和として僕は、いまここにいてこうして文章を書きながら
何か別の可能性について考えてみる。
どうせ書くのであれば、なにか自分すら完全に性質を変えてしまうようなもの。
文章にはそういう力があるはずで、僕はそれについて考え、雨について考え、
非現実的に美しい顔つきをしている若い女性と大して膨らみそうにないあいまいな
会話をつづけていた。
そうであったかもしれない、という仮定を過去へと進んでゆく霧の中の船の
ように心の中で確かめてみること。物語はそこから始まる。
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普遍について
http://boomers.exblog.jp/5756300/
2008-04-24T23:56:00+09:00
2008-04-27T16:15:50+09:00
2007-06-18T23:56:37+09:00
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文章
実は殆ど同じようなものではないかと最近になって思うようになった。
わかりやすく言うと自分の話ばかりしている人と、他人事みたいに自分を
語る人は実はほとんど同じことをしている。
ジャニスジョップリンという歌い手がいて、僕は若いとき、彼女の歌が苦手だった。
その濃い生き様を反映した“歌”は私小説的にずっしりと重く、自我にまみれた彼女の
歌に僕は普遍性を見出すことが出来そうになかった。
ジョンレノンについても、僕はほとんど共感できなかった。
ビートルズのメンバーで、ロックンロールの伝説の人で、若くして撃たれて死んだ。
その人の歌もまた、心の悲痛な叫びのようで、聞くのが苦しかった。
なんていうか私小説的アプローチに芸術性を感じるように僕自身が生きてこなかった。
そういうのは単なる自虐だろうよ、と僕は決め込んでいた。
自分の生活を量り売りして、金を稼ぐロックスターに唾を吐くように。
今では大分それと異なる考え方をしている。
芸術家というのは時代の病の罹患者なのだ。
クイーンのフレディーがHIVで命を落としたように、芸術というものは
それを宿した肉体を物理的精神的に焼き落す。
誰かが自分のエゴについて嘆くとき、人は主観性を論じ、批評する。
しかし、薄い皮一枚で世界と隔てられている僕らにとって世界とは
エゴの拡大図とそう変わらないはずだ。
自分というものを遠く離れ、僕らが口に出来る単純な言葉は、一体なんだろうか?
普遍性というものは、自分の足元を掘り下げて、自分の暗闇に気づいた後で
人が偶然に通過するトンネルの向こう側にあるものだ、と僕は思った。
僕は、誰かの言葉を理解しようとするとき、誰かのいる“そちら側”へ行くことを考えていた。
でも、僕は今では全ては“こちら側”のものだと考えるようになった。
例えば、人は個人的な辛い思いを体験する。
それは何処からやってきたのかと考える。
それは、自分の内側が招いた何かだ、と考えることは危険なことだろうか?
歩いていて、空から降って来る雨のように不幸は訪れるだろうか?
自分と、自分の心に距離を保つことに対する呪いや教え。
冷静に。客観的に。でも、それは僕らを何処へ運んだのだろう?
僕は個人的な人間として、長いこと、そのような命題 -それは僕にとっては
小さくない疑問だ-を抱えていた。
ある日、僕は旅に出た。
それは、自分の足元で僕自身をずっと規定してきた何かから遠心力でとことん
逃げ切ってしまいたい、という思いから始まった旅である。
僕は、他の誰かと僕が全然違うように思ったり、僕と誰かが殆ど同じであるように
感じたりしながら、沢山の風景を見つめ、沢山の人々と話をした。
膨大な風景。それは塵のように積もって、僕の心の中を過ぎ去っていった。
僕は、遠い街から、はるかな思いを届けようとしてくれる優しい手紙について
考えるように主観的であることに意識的になった。
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猫の茶々丸と、最初の長い上り坂、そして時間の濃淡
http://boomers.exblog.jp/6031083/
2007-08-21T22:55:00+09:00
2008-04-27T15:35:04+09:00
2007-08-21T22:55:57+09:00
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山形への旅2
※]]>
星
http://boomers.exblog.jp/5963141/
2007-08-06T00:10:41+09:00
2007-08-06T00:10:41+09:00
2007-08-06T00:10:41+09:00
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文章
毎日、何人かが来訪されている。
誰が見に来てくれているのかは良く分からないが、固定ファンみたいな
方が、このページにもいるのだろうか?。良く分からない。
そういうわけで、突如、人前で発言を求められたシャイな少年のような
気持ちで僕はなんとなく、この文章を書き出したわけだけれど、まったく
もって、ノーアイデアである。申し訳ないのだけれど。
そういえば先日、近所の量販店で友人と待ち合わせをしていて、
友人を待っている間、なぜだかサッカーがしたくなって、サッカーボールを購入した。
それで、そのまま流れで近所の小学校にボールを蹴りに行った。
随分と汗を掻いて、お腹が空いてきたので海岸沿いのレストランへ出かけた。
お勧めの牡蠣を食べ、軽く酒を飲んだ。
その後で、マリンスタジアムに行って野球を見てきた。
外野席で、ベンチに横になって無得点のまま進行する試合を眺めながら、
僕はなんとなく、ずっと不思議な気持ちでいた。
帰り道、なんとなく、そのまま家に帰るのも勿体無いような気がして、友人に
銭湯に行こうと行った。
高速道路沿いにある街の銭湯の露天風呂で寝そべると、飾りの笹の葉の
向こうに星空を見ることが出来た。
遠い日の深い秋の日。19歳であった僕は同じような状況で、やはり何処かの
露天風呂で、そんな風に星空を逆上せるまで眺めていたことがあった。
その時、僕は外野席で野球を眺めていたときの不思議な気分が、懐かしがる
感情と良く似ていたことに気がついた。
既に風呂場から上がって、脱衣所の外のマッサージチェアで寝そべり、幸せ
そうに目を閉じている友人に、その気持ちを語ろうと想ったが、辞めた。
25歳も過ぎた頃から僕がなんとなく探しているものは、郷愁とでも言うべき
感情にとても良く似ているような気がする。
それが未来に向かって、歩いていくということと、どのように繋がっているのだろう。
帰り道、風呂上りの虚脱感の中で僕は再び、車のシートに深く寝そべって、
いつか何処かで見たように感じる暗闇の中に星を探していた。
]]>
雨
http://boomers.exblog.jp/5870715/
2007-07-15T02:08:00+09:00
2007-07-17T00:42:48+09:00
2007-07-15T02:08:35+09:00
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SNAP
下宿していた町と同じで、その町について話をしているうちに
居ても立っても居られないほど、そこを訪れたくなって、
実に6年ぶりに電車に揺られて、その町へ行ってきた。
知人も一年くらい里帰りをしていないということで、
僕らは東上線の池袋駅で待ち合わせをして、雨の中
遠路はるばるというべきか、電車で一時間ほどの距離を
そこに向かった。
「どんな思い出がある?」
と、知人は空いた電車の座席に座って、ぼんやりと窓の外の
風景に目を向けていた僕にそう尋ねてくれた。
「色々な思い出があるけれど、退屈さ、かな」
少し考えてから、僕はそんなことを口にした。
僕がしっかりと追憶のような感情に包み込まれて、それ以上
言葉が続いてこないことに気づいたのか、彼女はi-podの
ヘッドフォンを耳に突っ込むと、少しして眠ってしまったようだ。
駅に着いた。
彼女を軽く揺すって起こすと僕らは列車から降りた。
「一人になりたい。そうでしょう?」
と彼女は言った。
「そんなことはないよ。」
それでも、知人にそう言われてみると、僕は自分が不思議なくらい
懐かしい街を一人きりで散策したいという思いを抱いていることに
気がついた。
「やっぱり、少し一人になって歩いてみたいかな。退屈だった頃の
自分に再会しているようで、何だか照れくさいから」と僕は言った。
「いいですよ」と彼女は言った。
「二時間後にでも、駅で待ち合わせして、ご飯を食べましょう。
その間、好きなだけ過去の自分に浸ってください」
好きなだけ過去の自分に浸る、その言葉がなんとなく彼女らしくて
僕は少し笑った。
改札を出ると傘を差して、我々は手を振って分かれた。
電車の中で彼女が僕にした質問について、明確な回答を考えてみる。
退屈さ、と僕は言った。
僕という人間の退屈さ、若い時代の退屈さ、町の退屈さ、色んな意味で
それは間違った答えでなかったことにふと思い立った。
カバンから、小型のカメラを取り出して首にぶら下げた。
広角レンズを搭載したそのカメラは小さいボディーに似合わないほど
シビアに風景を切り取ってくれる。
駅前ははっきりと面影を残していた。
僕は20歳に戻ってしまったような気持ちを感じた。
どんな思いで、この道を何往復もしていたのだ、と自分に問うた。
路地の道を選んで歩き始めた。
古く寂れた小さな神社。その神社を抜けて、路地を奥へ進んだ。
10分も歩くと、その頃、住んでいたアパートが姿を現した。
大家を尋ねようか・・・。ふと、そんなことを思ったが、3年以上も暮らした
というのに大家と碌に言葉を交わしたこともなかったのだと思いなおした。
アパートの新聞受けを覗いて、昔、僕が住んでいた号室の名札を確認する。
誰も住んでいないようだった。
僕は再び傘を差して、外へ出た。
大学をサボって、夕方に目覚めると良く飯を食いに行った小さなレストランの
方へ向かって歩く。
レストランのあった場所は跡形もなくなくなっていた。
何処へ行こうか・・・?
二時間後の約束通り、彼女は改札で随分と眠そうな顔をして、僕を待っていた。
「何処かへ入りましょう。なんだか、雨が冷たいわ」
僕らは目についた小さな洋風のレストランに入った。
その店は昔なかったものだった。
「じゃあ、この日替わりランチを」
「じゃあ、私もそれ」
僕らは雨の音を聞きながら黙って、遅めの昼食を取った。
朝早く家を出たので、土曜日はまだ十分、時間を残していた。
「何処へ行ったの?」
コーヒーを飲みながら、煙草の煙を吐き出していた僕に彼女はそう尋ねた。
「住んでいたアパート。それから、良く昼寝をしに行ってた河原。」
「それで、何か面白いことはあった?」
「特になにもないよ」と僕は生返事をして、煙草をもみ消した。
「でも、一つ思い出したことがある。この町の図書館でCDを借りっぱなしに
なっていたんだ」
「何のCD?」
「ドビュッシーの「海」というレコードなんだけど。引越しの時にダンボールに
入れてもってきてしまったみたいなんだ。今でも家にあるよ」
「盗んだのね?」と彼女は持ち上げたコーヒーカップから、瞳だけを覗かせて
笑った。
「そうじゃないけれど、まぁ結果的にはそうだね」
「貸し出し中になっているのかしら。そのレコード?」
「10年もの間?」
「だって、現実の問題、10年もの間、あなたはそれを借りっぱなしなんでしょう?」
店を出ると僕らは図書館へ向かって歩き始めた。
見慣れた町並み。昔からある貸しレコード屋の姿が見えた。
何枚ものレコードをここに売りに来て、夕飯の小銭に変えたものだ。
彼女は青い傘の下でくすくすと笑った。
「ほんとに随分と貧乏だったんだね。」と僕は言った。
図書館につくと彼女は窓口の貸出係にドビュッシーの“海”はあるか、と尋ねた。
貸出係は柱のわきのパソコンを指差し、あれで確認してみてくれ、と答えた。
彼女がドビュッシーと入力すると、“海”の入ったCDが検索されてきた。
「貸出中」と彼女は僕の目を冗談っぽく覗き込みながら、そう読み上げた。
「まったくねぇ」と僕はつられて笑った。
「図書館の記録からは抹消されていないみたいね」
「でも時効さ」と僕は答えた。そう、時効。あれは10年近く昔の話なのだ。
「随分と利息がついているかもしれないわね」
「図書物には利息はつかないだろう。現実的に言ってさ。」
僕らは雨の匂いのする図書館を暫く黙って歩きながら、時々気になる本を
手にとったり、自分が読んで感銘を受けた本について言葉少なく語り合った。
土曜日の図書館には受験生やら初老の男女や調べ物をする人がちらほらと
いた。
三連休を実家で過ごすという彼女がその滞在中の暇つぶしの本を探している
間、僕は図書館の中庭の喫煙室で煙草を吸って過ごした。
「ねぇ、次に来るときにドビュッシーの“海”を持ってきたらどうかしら?」
「なんて言って返せばいい?」
「なんだっていいわよ。忘れていたとか、気がとがめて10年ぶりに返す気に
なったとか、適当に言えばいいじゃない」
「高い利息を請求されるかもしれない」と僕は言った。
「図書物には利息はつかないんでしょう。現実的に言って」
「そう。現実的に言って、図書物には利息はつかない」と僕も返した。
「あなたが返したら今度は私は借りに来るわよ」
僕らは雨の中を駅まで歩くと、そこで分かれた。
再びやってきた静かな一人の時間にもう一度、町をぶらぶらと散策したいような
気になったが、なんだか雨降りがわずらわしく、結局僕は池袋行きの乗車券を
購入した。
帰りの電車がやってくると僕はふとあることを思い出した。
やれやれ、今日もまた写真を撮ることが出来なかったな、と。
雨降りがいつまでも続きそうな土曜の町の重たい空気を吸い込みながら
僕はいつのまにか深く電車のシートで眠りに包まれていった。
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借り物の衣装
http://boomers.exblog.jp/5788572/
2007-06-25T23:46:00+09:00
2007-06-26T00:06:16+09:00
2007-06-25T23:46:23+09:00
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文章
僕はしょっちゅう、借り物の衣装を着ているような気持ちになります。
つまり、今ここで何かをしている自分がいて、そういう自分と廻りに誰かが
いる時の自分は何か別の存在に思えるようなことなのですが、
そういう気持ちが一般にどのように捉えられているのか僕はよく知りません。
ただ僕が漫然と感じていることは、そういう衣装が年を取ると共に増えてきた
ようだな、ということです。
あるときの僕はやたらシタタカだったり、またある時はとてもウッカリしていたり、
はたまた、誰かの前では変に強がっていたり、涙脆くなったりするのも人情というわけで。
それは何もアイデンティティがどうした、とか、そういうヤヤコシイ話をしたい
わけではなく、相手に合わせて自分というのは結構変化するものだということなのです。
恋に落ちたりなんかすると、人は誰それの前では自然でいられるなんてことを
口にしたりします。
自然な自分ってなんだろうっていうと、つまり「そのように在る自分が好ましいこと」
ではないかと、ふと考えたりします。
つまり、誰それの前における自分は、他の誰それの前における自分より何だか、
好ましいということですが、これは何ていうか世間一般に言う気が合うとか
気が合わないといったことにも何処か繋がっているようです。
本当の自分、というのはあくまで「そのように(誰かの前で)在る自分が、
自分自身で思うところの自分自身に近しいと感じる」ということであり、
人は結構、そういう状態に気持ちよさを感じたりする生き物であるようです。
で、僕は外にいる間じゅう、なんとなく自分は借り物の衣装でも着ているように感じる
わけです。
つまり、「自分自身で思うところの自分」というものを一先ず、熊の縫いぐるみか何かで
完全に包み込んで、縫いぐるみの内側から、誰かと話したり、息をしたりしていると
いうわけですが、観察していると社会とは概ね、そうしたことで成立している部分も
少なからずあるようで、大袈裟に言えば僕はそう感じるわけですが、これは一体
どういうことなんだろう?と時々考えます。
誰かが分かりやすく、そのあたりについて論文でも拵えてくれれば助かりますね。
分厚い縫いぐるみを脱いで、分かり合った!なんて思っている自分もまた、しっかり別の
薄手の縫いぐるみを着ていて、実は対する相手も縫いぐるみを分厚く着ているなんて
ことは世間にはわりと良くあることで・・・。
そのあたりについて深く考えていくと、分かり合うとか、分かり合えないとか、そういう
大きな問題にほんの少し近づくことが出来るのだろうか?
僕らは自我とか、自分とか、考える時に、つまりは「お気に入りの縫いぐるみ」について
考えているようなものではないか、と僕は学者的に一先ず考えてみたりするわけです。
えっへん。
それで、外見とか中身とか、そういうものについて熱心に話をする時、人は結構、そういう
お互いの縫いぐるみについて批評したり、褒めあったりしているに過ぎないのではないかと。
ははぁん、そんなに簡単に心は開かないぞ、なんて思ったりしながら。
それで僕は思うわけですが、誰かの寝顔や、あどけない馬鹿みたいな笑い顔に
不意打ちで、心打たれたりする時、人は案外、不用心にも縫いぐるみを脱いでいたり
するのだろうか?、などと思います。
ある人の寝顔を思いがけず見てしまって、ふとそんなことを思ったわけですが、
今のところ、これといった役に立つ結論は出ていません。]]>
一発書き
http://boomers.exblog.jp/5779130/
2007-06-24T00:53:00+09:00
2008-04-27T15:46:30+09:00
2007-06-24T00:53:19+09:00
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SNAP
つまり、音あわせや練習もなく、ぱっと思いつきで、ノリの演奏をして、そのまま
パッケージしちまおうという話なのですが、僕はこの一発どりが結構好きです。
世の中には、たった一回だからこそ達成される、勢いノリみたいなのがあって
それがスルスルとわけなく行くような時、二回、三回と繰り返され洗練された
演奏を凌駕してしまうような瞬間があると僕は思います。
僕がこういうところに書く文章も(長いのも、短いのも)一発どりと似ていて、
最初の一文字から最後の一文字までサッと勢いで書くことが多いです。
大事なのは、その文章の流れのテンポに乗り遅れないように乗ることだと思います。
思考のスピードに、指のすべりをあわせることが出来れば、そういう文章が
時々書けるし、そういう風にして書かれた文章には“読み手を考えながら書かれた
文章”にありがちな、重さが比較的少ないように思います。
僕はそういう即効演奏的な文章の方に好感を持つし、読んでいて楽しいです。
こういう風に話そうとか、こういう風に人に思われたいという考え方から生まれた
ものと、そういうサッと勢いでみたいなものは結構違いがあります。
流れるように、という流暢さの中に何か滲み出てくるものの方に関心があります。
沢山の人の記事を読むのだけれど、どうしても「自分というものをこう捉えて欲しい」と
いう思いが過剰だと思ってします。
でも、そういう風にして書かれた文章や、上手だと評価されるための写真には
僕自身は深い関心を抱くことが出来ません。
まぁ、僕が何をどう思おうと世界は勝手に進んでゆくわけですが、そんなことを
感じたので、一発書きをしてみました。]]>
ロストタイム
http://boomers.exblog.jp/5718653/
2007-06-10T23:06:00+09:00
2007-06-11T23:12:30+09:00
2007-06-10T23:05:39+09:00
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文章
音信不通というのは良くない。
そう、それはなんだかとても傲慢である。
というのは、僕の人生時間が時を刻むのと相反して、記事を投稿しない
ここのブログ時間は止まったままだから。
このブログ的世界において、時計の針を進める役目を担っているのは僕である。
責任は全て、こちらにある。(というほどのものじゃないと、突っ込みも聞こえるわけだが)
それでも、毎日、何名かの方がここを訪問なさっている。
そういうのは、なんていうか僕としても少し胸の痛い問題である。
pingを飛ばしてない、このブログに訪れる人はなんていうか古い知り合いのような
人たちなのだろう。
なんとなく、このページを更新することも出来ず、かといって、ブログそのものを
抹消することも中々出来ない。
写真というのは結構、未練がましいところがある。
これについては色んな意見があるとは思うけれど、結局、瞬間瞬間で移ろってゆく
風景を残しておく術はない。
でも、人はそれを残したがろうとする。未練という言葉で片付けてしまうこと。
なかなか出来ないなぁ。
僕がこのブログを始めた頃、僕は結構、色んなことを考えて、それで僕は
なんとなく自分が歩いている道とか、なんでもない風景とか、そういうものを
余所の誰かと共有してみたくなったのだ。
そういう“欲”から始まって、記事を書ける時も(書くときは過剰に投稿していた)
書けない時も、このページは僕の心のどこかにいつも、引っかかっている。
未練。未練。未練。そう未練はとても美しい。
更新?
しますよ、いずれ。そう、それは約束します。
ただ、なんていうか、僕は結構ノンビリ屋で、楽観的なところの多々ある人です。
記事を碌に書かない、こういう時間にも僕にとっての、ここに訪れて欲しい人は
たまに覗きに来てくれているんだろうな、なんてことを性急に更新が繰り返される
このブログ的世界の中で、僕はわりかし気楽に考えていたりします。
いつか、僕がここに前みたいに、易々と記事や見た風景のことについて
話すようになったら、是非、近くまで来て、たまには話しかけて欲しいと思う。
そうそう。雨が続く梅雨時ですが、皆さん、傘をお忘れのないよう。
チャオ。
]]>
WIND
http://boomers.exblog.jp/5445765/
2007-04-18T22:22:20+09:00
2007-04-18T22:22:20+09:00
2007-04-18T22:22:20+09:00
waterkey
SNAP
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river on the boat
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2007-04-16T23:14:00+09:00
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waterkey
SNAP
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From Cherry blossoms town
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2007-04-15T22:51:04+09:00
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