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詩を分析する
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こういうことは、あるいは全く無意味な行為なのかもしれないが、詩や散文から、その作者の人生観や死生観を見出すことは果たして可能であろうか?
というのも、友人の書く詩のような、散文のような文章について僕は前々から、のっぴきならぬ興味を抱いていたからである。

たとえば、彼の最新の記事にはこのような詩が掲載されていた。

***********(原文ママ)*************

鋼鉄の街へ往くボク 

止めどなく流れるキミの涙 

それはきっと馬鹿げた不安 それはきっと曲げられない現実

http://photoinscribe.com/spareluv/archives/0612/05230215.html
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鋼鉄の街とは何か?
そこへ向かうボクの精神的状況はどのようなものであるのか?
なぜ、キミはとめどなく涙を流すのか?
馬鹿げた不安であり、同時に曲げることの出来ない現実とはなんであるのか?
沢山の?マークが頭で溢れたことには間違いはないが、「なるほど!」と膝を打つような理解には現在まだ至っていない。

僕には、この詩から、作者の意図のようなものを具体的に連想することは何一つ出来なかった。
僕が知っているのは、彼には妻がいて、子がいて、仕事があって、という現実的な事実の幾つかと長い時間経過の中で知りえた彼という人格のおおよその輪郭に過ぎない。

彼は千葉県在住である。詩の中では「往く」と書かれていることから、鋼鉄の街は彼にとって向かう場所、すなわち外部であることは明らかなようである。
ついでに(詩の分析とは関係ないのかもしれないが)現実の彼の行動範囲は千葉←・→秋葉原(東京)という感じなので、ここでは鋼鉄の街とは、東京、主に秋葉原、主にヨドバシカメラということが言えるのかもしれない。

複雑な数学の公式を考えるとき、僕らが良くするように、詩における象徴的言語を、現実の彼の行動範囲に置き換えて、再検証してみる、というのがもしかすると理系人間の彼の詩を読み解く数少ない手がかりなのかもしれない。

すると、こうなる。

鋼鉄の街=(秋葉原、もしくはヨドバシカメラ秋葉原店)へ往くボク。となるわけだ。

彼は既婚者であり、キミと呼ぶことが社会的制約の中で許される対象というと配偶者(奥さん)と考えるのが普通であろうから、とめどなく涙を流す“キミ”とは、端的に彼の妻のことであろう。
そこでなんとなく、詩の一部が見えてくる。
僕は彼の妻さんと、良く話をする。彼女は中々、話好きな人で、僕も人の話を聞くのは嫌いじゃない。それでそういえば、奥さんは彼のヨドバシカメラでの散財に常々、心を痛めていた事実を思い出した。

ヨドバシカメラへ行くボク
とめどなく涙を流す奥さん

つまり、これは彼の電化製品への散財っぷりについて描かれた日常詩なのである。(独断)
買いたくて買いたくて(つい)ヨドバシに行っちゃうボクと、散財ぶりに振り回される心優しき妻という家庭的な情景を描いているのである。深い。というか、彼を知らなければ殆どそんなこと分からない。分析してみるまで僕も分からなかった。

“それはきっと馬鹿げた不安”、というのは誰からの目線で語られる不安であろうか?
涙を流す奥さんの胸のうちの不安であるというのが適切な解釈ではなかろうか。
もう一歩踏み込んで考えると、(ボク=旦那が)ヨドバシでまた何か余計な買い物をするなんて馬鹿げた不安よね、と考えたい女性的な心理であると言えるかもしれない。

でもボクにとっては、“それはきっと曲げられない現実“なのだ。しっかりとまた散財してしまう
のである。かくして、この詩は3Dとして立体化され、客体から主体へ、比喩から隠喩への転換を遂げる。

ヨドバシカメラへつい繰り出してしまうボク。
もう、余計な買い物しないで、と泣きながら送り出す優しき妻。
『でも、そんなの馬鹿げた不安よ。』と思う妻の気持ちを今日も
『曲げることの出来ない』ボクの物欲が踏みにじる。

という、これは物欲と家庭の調和は常にトレードオフ(交換不能)であるという深いメッセージなのである。
このような大きな物語をたった4行の散文詩で言い尽くしてしまう彼の才能と業は深い。

そして、彼は今日もヨドバシに寄っていました、奥さん。(告げ口)
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by waterkey | 2006-12-06 22:16 | 文章



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