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対談を終えて
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僕らは、自分の日ごろ考えていることなどを上手く表現してくれる誰かと出会ったとき、
少し楽になるということがある。
もやもやとした言葉にならない、未整理な感情に名前をつけてもらうように。
写真を撮っていると、ファインダーの中の何にピントを合わせるべきか迷うことがある。
その画面における主役と脇役をどうにも決められないという瞬間が訪れるのだ。
東京の街でカメラを持って歩いていると、そういう“何にピントを合わせるか”という部分
について深く考えさせられてしまうことが多い。
どうして、そういうことが起きるのかについて、僕は今のところ明確な答えが出ていない。
自分の中にすら不分明な部分があるということ。
自分の感情と、自分との間に一定の乖離があるということ。その真ん中あたりにある
バッファーのようなところで、物事を考えていくことが一つの手がかりだと思っている。

一口に写真を撮る人といっても、そのパーソナリティーは当然ながら、一人一人異なっている
。かといって、同じ道具でまったく同じ場所から取った写真はそんなに別の世界を写している
わけではない。ただ、長い時間をかけて一人一人の撮った写真は別の方向へと流れている
ことを僕らは見て取ることが出来る。点と点が線になるような感じで。
今回、その線をあえて、“風景に対する距離感”“個人としての生理”みたいなところで話を
してみたわけだけれど、その線が提出する一つの流れ-物語といっても差し支えないだろう
-に個人として、この曖昧な世界に対して、不器用な回答を出す一つのヒントがあるように
僕は考えている。

表現によって、僕らは何処かへ行くことが出来るのだろうか?僕はそのことについては
暫く時間をかけて考えてみるべき、大切な問いかけがあるように思う。
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by waterkey | 2006-08-24 23:54 | SNAP



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