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特別企画「なぜ撮るのか?」
はじめに。
以下は人気ブロガーとインターネットを通じて、半年間に掛けて僕が行った対談の内容である。

元々は公表を意図したものではなくて、言わば個人的な親交のようなものから始まった。
最初のきっかけは、僕のホームページへの※コメントであったわけだが、少しして電子メールで、またはヤフーメッセンジャーでやりとりを始めることになった。
※(そのコメントについては、今回この記事を発表する上で匿名でやりましょう、という彼の希望から削除することにした。したがって、このホームページの何処にも彼が誰であるかを特定するものはない。当然に、彼の写真を商用として宣伝する意味も何処にも含まれない。)

長い時間に渡って、電子メールで往復書簡のように連絡を取り合い続けたことについて言えば、僕は彼に興味を抱いていたし、彼もまたおそらくは僕に何処かで興味を抱いていたんだと思う。
(そうでなければ誰が長い時間を掛けて半年間も、メールでやりとりをするというのだろう。)
そして、そのやりとりはどちらかのブログにコメントを通じて、やりとりするというよりは“非公開で”“個人的な”電子メールでの送受信に向いていたんだと思う。

僕は最初の数回のメールのやりとりを通して、彼に、まともさと知性を感じるようになり、同時にそのメールの文面から、物静かで謙虚な彼の好ましい性格の印象を受けた。
彼の方が僕より少しばかり年下ということもあって、いつしか彼のみが敬語を使うような形になっていったわけだが、僕は“タメ口”を遣わさせて頂きながらも今では、彼には尊敬というか、ある種の敬意を抱いている。
そして、僕にとってそれは結構珍しいことでもある。
というのも僕は結構、他人の嫌な側面を見がちな傾向が少なからずある人間だから。あるいは別の言い方をすれば、他人のことを楽観的に全面的肯定をしたり、悲観的に全面的否定をしたりする偏った判断をすることの殆どない人間であるからして。

でも、僕が彼に興味を抱いたのは、彼の知性や謙虚さではなく、(結果としては)彼の物静かさの裏側にある、強い野心と、癒されることのない孤独な心のありようにあったように思う。
そして、頭の良い人間が大抵そうであるように彼は簡単にはそうした自分の内面を悟られないように随分と注意深く配慮していたし、そこへたどり着くまでに僕は、薄暗い長い廊下をずいぶん長いこと歩き続けなければならなかった。

僕は思うのだけれど、人というのは何枚もの借り物の衣服を、知らず知らずその身にまとって生きているのだと思う。
そういう意味で僕は、例えば結構タフで分厚い皮のジャンパーを纏っているし、彼はふわふわとしたカシミアのコートを纏っている。彼は柔らかく軽やかな服を着て、ひょうひょうと陽の当たる大通りを歩きながら、街を流れる風の冷たさと、その無慈悲で、残酷なシステムのことを、ちゃんと意識している。
全然楽観的ではないし、イノセントでもない。高いインテリジェンスと、その結果として沢山の荷物を引き受けてしまう傾向を有している。
僕らを包む空気はある意味で、同質の冷たさを有している。
僕は皮のジャンパーのファスナーをしっかりと閉ざし、その凍てついた空気に凍えてしまうことのないように、誤って風邪を引いたりしないように注意深く通りを歩く。
彼はふわふわと柔らかい上質なコートを纏いながらも、その下にある脱ぎ去ることの出来ない鋼の肉体を誰に悟られることのないよう、僕と同じようにある意味でしっかりと身を隠している。
僕らはそういう意味で何処かお互いの一番下に来ている衣服(それは肉体を意味するわけだが)のそのまた、内側にある何かに同質性を感じ、呼応関係にあるように思う。
古風な言い方を許していただければ、友情というものの心持ちにとても似ている。

僕は長く薄暗い廊下を何処かへ向けて歩きながら、何度も右に曲がったり、左に折れたりしながら人間存在の奇妙さと、その不思議な奥深さのようなものについて考えることになる。
僕らが誰かの心のうちに、その深い泉の水際に触れようと願うとき、そこに到るまでの長い道のりを思う。
僕らが、他人を理解するということはとても難しく、その衣服が(外側の衣装が)語ることの少なさを知り、その衣服の下にある硬い鋼のような肉体や、柔らかい心持ちを知る。
そして、僕らはそのような邂逅のために沢山の誤ったドアノブに鍵を差込み、見当はずれな部屋のベルを鳴らし続ける。
あるいは、こうも言える。僕らはそのようにして、長い廊下の向こうにある誰もいない部屋で訪問者を待ち続けている。



彼の写真は、硬質で、無機質であると同時に、とてもメッセージ的な印象を受ける。
写真としては、「分かりやすい」タイプのものだと思う。少なくとも、分からない人には絶対分かるまいという受け手を選ぶような変な気難しさは微塵も感じさせない。押し付けがましくもないし、何かを交換することを求めてきたりもしない。この事を人間の類型で考えれば、分かりやすいと思う。それは、とても好ましい人物だろう。

構図に対しては、とてもナチュラルだ。へんな“凝り”“こだわい”がなくて、疲れない。
使用しているレンズの種類もおそらく2本から3本程度だと推測する。もしかすると一本で撮っているかも知れない。
そういう写真を撮っている。少なくとも受け手に機材や、フィルムの特性を感じさせたり、頭を捻らせるような種類の個性は全て消し去られている。
彼は殆ど自分の目線で写真を撮っている。花だからといって、しゃがみこんで撮ることもなく、動物だからといって自分自身も四足になった高さで撮ることもないし、高いビルを同じ高さまで上って、撮ることもない。いつでも、自分の高さを一定に撮っている。
そして、人を疲弊させるタイプの「思い込み」や「思い入れ」が被写体に向けられていない。
動物を擬人化することもなければ、何かに自分を依存しているような“湿り気”もない。
そうした変な意識みたいなものを細分化させ、薄めることで、飛躍的に、普遍的な目線を得ているのだ。
彼の写真の一つの特性は、そういう意味では天性の(人間的な)バランス感覚にあるのだと思う。そのバランス感覚の真っ当さが、非常に良く出ている。それはやはり天性のものだとしか言いようがない。

そして、その一貫したスタイルが、彼の写真の生理なのだと思う。
被写体は、人と街が多い。でも、彼に撮られた風景もまた何だか、とても無機質な感じがする。
上手くいえないけれど、現実の人が持つ“あく”のようなものは彼によってフィルタリングされ、そこに残っているのは、静けさに満ちた佇まいのようなものだけだ。
硬い果実の皮を剥いて、柔らかい果汁に満ちた生の果物を表現するために、彼は、おそらくそうした手法をとる。あるいは、人が往々にして身に纏いがちな不似合いな衣服を一枚づつ脱がしてしまうように。

それから、そこに映し出されているものに日本語の標識が写っていようと、日本人が写っていようと、もっと言えば僕が良く知っている東京の街並みを撮ったものだろうと、不思議な異国感がある。
異国感。それは白黒で撮ることとか、彼が世界の多くの異国を仕事柄訪れていることだけの理由ではあるまい。僕は彼の写真を見るたびにその“異国的”な風景に深く関心することになる。
これは一体どういう技法で、このようなアクのない、それでいて奇妙に心打つ写真になるのだろうと。

表現が、あるいは表現のための行動が、芸術と呼ばれるものに昇華されるために、あるいはそれが酷く美しく、デザイン的で、強いインパクトを有していても芸術になりえないところで終始してしまう表現と袂を分かつことについて、僕は多くを語ろうとは思わない。僕は別に評論家ではない。
だから、それは才能という言葉でひとまず、話をつけておくしかないような気がする。
僕は、彼の“異国感”と言うしかない世界の映し出し方に、ひどく惹きつけられる。そして、それは連続的に1つの一貫したボディーブローを受け手に、- 辛らつで現実的で、言葉を選ばずに言えば純粋な野心に満ちた - 彼の好ましい謙虚な人柄と裏腹な、きついメッセージを与え続ける。
彼の作品が、その入り口で示す開かれた、物分りのよい表情とは別の、限定的で、荒削りでワイルドな切れ味の鋭い刃物のような力強い思い。
僕に向かって、誰かに向けて、あるいは彼自身に向かって。

写真表現の主人公は誰なのだろうか?。
なぜ、それほどまでに写真を撮るという行為に魅せられてしまったのか。
風景に何を見ているのか。
そうしたことについて、遠慮なく語り合っている。写真表現を超えた別の読み物としても、なかなか面白い話し合いになっていると思う。以下がその全貌である。

( 次回へ続く )
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by waterkey | 2006-08-19 21:10 | 対談集



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