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ハッピーエンドと物語の有効性(4)
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分かりやすく例えるのであれば、
誰かが道に迷って困っているところに、最後に何処からか救いの手が伸びてきて
迷路から救い出されました。ちゃんちゃん。
という物語を便宜的に設けたときに、僕らはそれぞれの抱えている問題を投影
させることは一応は可能だと思うんです。
でも、そこで僕らが掴み取ることの出来る教訓というものは
①待っていれば、そのうち良いこともあるんだ。だから耐えよう。
程度の感想に過ぎないのではないか、と僕は思うわけです。
簡単に決め付けることは出来ないけれど、僕らの問題が軽いうちは
僕らはその物語から何かを学び取り、自分の問題を迷路に置き換えることで
それなりのカタルシスを得ることは出来るでしょう。

でも、僕らの抱えた個人個人の問題が深くなればなるほど、物語にも力が必要に
なるのではないか、と僕は思います。
そういう意味では“浅い”表現が受け皿になれる範囲というのは、(時代的に)どんどん
小さくなって来ているし、それによって救われる要素もかなり失われてくるわけですよね。

僕らに物語は必要なのか、という問いに対して言えば、これはもう間違えなく必要
なんだ、と僕は思うわけです。
というより、僕らは物語をその人生を通じて見続けてるわけですから。
でも、そこには模範が必要だと思うんです。あるいは別の物語が必要になる。
大きな問題に遭遇した時、軽くて安易な表現(ここでは芸術全般とする)は
もう僕らを救わないでしょう。
最初の仮定に即して言えば、待っていれば何とかなる、という状況以外の問題に
ついては、その物語は無効なわけですよね。
待っていればなんとかなるというヒントが、有効ではない場所というのは現実には
沢山ありますから。

僕らは日ごろ、映画を見たり、音楽を聴いたり、小説を読んだりするのは意識が
どうであるかは別として、やはりそうしたことが根底にあるはずだし、それを何処か
で強力に必要としている。
涙をそそう話や、感動を与えてくれる話は沢山あるけれど、僕らの抱える沢山の問題の
受け皿になる力をもった表現がそれほどない、ということは切実な問題だと思うし、それは
感受性だけの問題では僕はないと思う。
そういうことを先の記事で書いたわけだけれど、分かりづらいという感想がメールで
複数来ていたので補足いたしました。(※以前はブログ用のメールを公開していたので)

社会は自ずと(ある側面では)進化していくわけで、その時代の問題というものを現代に
生きている人間は好まざるとも引っかぶらなければ生きていけないですよね。
でも50年前の古典的芸術表現では、その状況を、現代の新しい問題をカバーできない
領域はどうしても増えてきている。
明治維新前の(つまり近代的自我が形成される以前の)日本文学に、現代人の抱える
問題が描かれていないという意味で。
その骨組みや組成をそのまま転用したり、拝借しただけの表現でも、やはりカバー
することは難しいですよね。

いま、世の中で起こっているマイナスの側面について言えば、やはり一端では個人が、
あるいは共同体が良質の物語性を失いつつあるというところに一つの原因を求めることが出来ると思うんです。
これから何かを表現をしようと思う人は、そのあたりの感覚を取り入れていかないと
どんどん表現そのものが(時代性によって)問題の複雑化と反比例するような形で、
先細になって、手狭になってきている。
安易な表現が馬鹿にしか見えなくなるほどの、複雑さに否応なしに僕らはこれからもっと
巻き込まれていくし、そういう意味でこれからも沢山の悲劇が生み出されると思います。

ただ、文章を書きましたとか、ただ写真を撮りましたんで見てください、という「私の押し売り」
に僕はかなり辟易としているし、そうしたものが量産されつつある状況を少し恐れています。
インプットとアウトプットのバランスがかつてないほど、崩れ去り、入ってくる情報に対して
吐き出すことの出来る場所が相対的に減ってきている。
どのような情報が“不要”で削除すべきもので、どの情報が“有効”かというフィルターの
機構がないまま、細胞分裂的に情報は増えていくわけだから。
それは、ある種の地獄絵図だと思うし、その傾向はこれからもっと激しくなるように思います。

現代の難しさというものは消費を中心にして回転せざるを得ないシステムにあると思いますし、
消費されるニュースに頭がついていかなくなって、麻痺していることにあると思うんです。

誤った物語に、あるいは安易で簡単なプロセスしか経ていない表現に対して、
僕らは「ノー」を唱えなければいけないと思うんです。
でも、それを作業として集団ではなく、個人として行うことに現代の課題があるんだと思う。
もっと突っ込んで言えば、僕らが個人的に悩んでいるときに古い諺や一般論に、
僕らを救い上げてくれるパワーが不足しているとも言えますよね。
悩める個人を救済するという役割を担うものの少なさに僕らは愕然とするわけです。
同時代の隣人が何によって救済されたかというノウハウを共有すること、それが現代
における問題を、個人が乗り越える、とりあえずのヒントになってくるんだと思う。

垂れ流された情報を汲み取って、浄化して、利用可能なものにするポンプの役割を
誰かが担わなければならないし、それがおそらく物語の構築に残されたヒントだと思います。

ハッピーエンド性というものは、そういう意味でどんどん時代遅れになっていくだろうし、
カタルシスはこれからもっと失われていくのではないかと思います。
細分化され、ある面では洗練されてゆくだけに問題の根幹というのは、かなり深くなり
つつあるし、そこにはポジティブに転換させるだけの「うねり」がなければ行けない。

社会というものは一つのシステムだし、そのシステムは個人を守る役割を担っていた
わけだけれど誰の目にも明らかな通り、共同の夢を見ることはどんどん難しくなっている。
零れ落ちてゆく「個人」をフォローする仕組みというものが、もう殆どないわけだから。

働きにも出ずに怠けている青年に、経験豊かな村の長老が語るべき言葉を持っていた
という共同体は消滅し、僕らを規定している足元の地表そのものが、揺らいでいるのが
現代だと僕は思います。
そこには共通の正しい道しるべは、もう何処にもないし、その分だけ個人の肩に乗せられる
荷物だけが増えてゆく。そして、それは果てしなく疲れることなんだと思います。
長老の経験が役に立たない世界で有効な物語を僕らはもう一度個人個人が立ち上げる
ことを求められているし、それは自己表現で解決する問題ではないと僕は考えています。

沢山のメールを送っていただいた(コメント不可になっているせいですね)
アゲハチョウの物語について言えば、僕は余り解釈を書きたくなかったんです。
というより文章で補うようなことは、今回に限って言えばしたくなかった。
それよりも、ある種の問題を抱えた人に対して、じわじわと何かが伝わるような、そんな
非効率さを僕は必要としたわけです。それがどのくらい有効だったかは別として。
表現について言えば、長いもの、連続性のあるもの、総合的なものが必要になってくるし、
登場人物も2,3人では到底、状況の具現化は出来なくなってくることでしょう。

僕は表現について言えば、作者は不親切くらいが丁度いいんだ、という気持ちを
持っています。というより、誰かの歩く道の、うんと先で受け止めることの出来るような
ボールを投げておきたいと思う。
そういう距離感が、あるいは謎が僕らを歩かせ、僕らの距離を縮める要素になると
今のところは考えているので。

明確なイエスやノーを僕らが唱えられるようになるには、もう少し時間が掛かりそうです。
とてもブルーな話になってしまいましたが。

最初に書いたように、飛ばし読みしてもらって全然構わない個人的な話ですが。
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by waterkey | 2006-08-15 22:42 | SNAP



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