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ハッピーエンドと物語の有効性(2)
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著者注<引き続き読み飛ばしてください>

私たちはいま、自己表現を求められる社会に生きている。
別の捉え方をすれば“自己表現をしなさい”と私たちは学校で教育されつづけていた。
しかし、自己表現などと言ったものが一体どこの世界に安易に出来ると言うのであろう。
自分の思うことを語ることが自己表現だとでも言うのだろうか。
これは本当に呪いだと私は思う。

私たちは簡単に自己表現などすることは出来ない。
物語の有効性は、そこにある。
私たちが語ることの出来ない状況を物語が変わりに語り、私たちが言い表すことの
出来ない心象を物語を立ち上げることで代弁する。
良質なテキストは私たちを歩かせ、今まで聞くことの出来なかった音色を耳にさせ、
私たちを自己表現の呪いから解放させる可能性を持っていなければならない。

道を歩む人の前に、壁を設定し、彼の力によって壁を越える。
そうした成長物語としての手法に、私たちのコミュニケーションの不全感を代弁する力は
とうに失われてしまっている。
どうしてだろうか。
そのことは自意識と無関係ではない。目で見える階級社会が消滅した今、私たちに
語ることを抑制させ、表現することを恐れさせる壁だけが取り払われたからであろう。
階級社会により、与えられた自己というものはそうした意味で自己表現を凍結させ、
個人が考えることから意味を奪ってきたからである。
私たちはいま少なくとも、あらかじめ決められた階級というものを持たない。
階級の代わりに私たちは自己表現を迫られている。

いま、誰かのイエスは誰かのノーである。
なぜなら、私たちには少なくとも共通の敵がいないからである。
個人的であることが最も普遍的であるという逆説めいたテーゼがここで立ち上がる。

ここはゼロサム社会ではない。
誰かのプラスが誰かのマイナスであると仮定するところからは何も始まらない。
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by waterkey | 2006-08-15 20:42 | SNAP



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