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第二章 我々は、どのようにして路を歩んだか? または路はいかにして我々を歩かせるのか?
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比叡山からの帰り道、我々は来た時より、少し無口になりながら京都方面へと山を下った。
僕は車の助手席でチョコレートを齧りながら、しん、としたあの空気について考えていた。
レンタカーのラジオから、stingのshape of my heartが流れている。
どうして、こんなにstingの声は悲しいのだろうか、と僕は思う。
でも、その歌は比叡山延暦寺にとても良くあっている。おかげで僕はshape of my heartを耳にするたびに、あの比叡山の帰り道の静まり返った夕暮れの蒼き路を思い出すことになる。
「僕の心の形はクラブでもスペードでもキングでもない」とstingは何度も繰り返し歌っている。
もちろん、クラブでもスペードでもキングでもないということはハートを表している。
しかし、この物悲しさは何だろう?と僕は思う。

首の後ろに両腕を回して、シートに深く蹲りなりながら、僕はそれについて考えてみる。考えたって、どうにかなるわけではないのだが、とにかく。


僕らは鴨川近くのレンタカー屋に車を返して、宿まで歩いた。

宿に辿り着くと、僕は汗だらけになった衣服を脱ぎ、着替えてしまう。顔を洗い、小便を済ませると部屋の冷房を利かせて食事までの間、横になる。
テレビではニュースが流れている。何のニュースだろう?
友人はそれを黙って眺めている。

僕は横になったまま、簡単に旅の記録をつけておく。何を食べたとか、それが幾らだったのかという現実的な事柄を忘れないうちに書き留める。
ふと、気がつくと足に幾つか豆が出来ていて少し痛んでくる。

僕は何本かの煙草に火をつけて、それから強い眠気を感じる。特に抗うことなく、そのまま目を瞑り、眠りへと落ちてゆく。
晩飯の時間が来て、起こされる。
二階の部屋から階段を下りて一階に行くと食事が用意されている。
他の宿泊客たちと肩を並べて、僕らは机の前に腰掛ける。
湯豆腐や京風に調理された幾つかの小鉢に箸を伸ばして、黙々と食べる。
ご飯が少し柔らかすぎる以外には特に不満はない。

そして、部屋に戻る。
僕はその日、目にした光景について、ぼんやりと考えてみる。
延暦寺で感じた不思議な空気のありようについて、何かを思う。
旅行というものは、僕はいつも思うのだが、そうした空気を体内に溜め込むことだと思う。特殊な場所にしかない、特殊な空気について僕は引き続き思いをめぐらせる。
そして、友人に(友人は携帯電話ばかり弄っている)その感想めいたことを話そうと思って、でも結局やめる。適切な言葉が見つからないのだ。
諦めたように、持ってきた文庫本のページをぱらぱらと捲る。本の内容は殆ど頭に入らない。それは複雑な経済学の本である。どうして、よりによって旅にそんな本を選んでしまったのだろう。やがて、僕は自分が疲れているということを自覚する。疲れている。うん、悪くない、と僕は思う。
体が疲れるということは、体を動かして疲労するということは僕にとって、いつでも良いことである。東京に居ると、心の方が疲れる。どうしてこんなに疲れるのだろう、と僕はいつも思う。
きっと人が多すぎるのだ。

風呂に入って、一日の汚れと疲れを洗い流すことにする。そして風呂から上がると体のあちこちに重たいような痛みを感じる。
旅先の疲弊、僕は嫌いではない。
僕は髪を適当に乾かすと、部屋に戻って、布団に横たわりながら、少しだけ友人に仕事の話をしたりする。友人はそれを聞くともなく、頷いたり、何か冗談めいたことを言ったりする。
あぁ、友人と僕が知り合ったのはじつに15年以上も前の話なのだ、と僕は思う。

僕らはビールを何本か空にしたあげく、当然の結果として酔っ払ってしまう。
それでも、僕らは明日の予定を立てる。スケジュールのない時間の過ごし方について、話し合う。彼の提案を幾つか否定し、僕の提案も幾つか(やんわりと)否定され、なんとなく奈良の東大寺へまずは向かうという方針だけが決まる。
そして電気を消して眠ってしまう。
ひょい、あっというまに意識は奪われ、生暖かい泥のような眠りの中に吸い込まれてゆく。
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by waterkey | 2006-08-02 00:21 | 旅行記



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