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<< 第二章 我々は、どのようにして... | すれ違う >>
山の頂上にて
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比叡山延暦寺を出て、山の頂上へと僕らは向かった。
そこは見晴らしの良い広い駐車場になっている。山々の向こうには街が見える。その眺望に文句をつけるわけではないのだが、そこには延暦寺にある、ある種の空気感のようなものはない。
あるポイントを超えると、現実と非現実の割合のようなものが逆転していき、最後には現実の濃度が100%になる。それが悪いということではなく、ただそのようにして僕らもまた現実に引き戻されてゆく。

僕はそこで、やっと一息ついてペットボトルのミネラルウォーターを飲む。
そして、流れ落ちる汗を―ここは何故だかとても暑かった―Tシャツのすそで拭う。
友人は風景を写真に収めている。
何人ものカップルが―何処へ旅行をしても、彼らを目にしない場所はない。きゃあきゃあと騒ぎまわっている―原宿から、そのまま空間移動してきたように嬌声をあげたり、喧嘩をしたり、仲直りをしたり、抱き合ったりしている。彼らが求めているのは場の雰囲気であり、また雰囲気を与えてくれる場である。そこには微塵も歴史の前で、ふと言葉を奪われるような感慨や知性は感じられない。
そして、彼らの存在はなんだか僕にとって不思議な光景にも見える。あと何百年か過ぎても恋人たちはそのように存在しつづけ、そうした周囲への無関心さ(彼らの興味の大半は恋愛やファッションのことに過ぎないのだ!)の中で時間を費やしていく。
僕はもちろん、彼らに対して何も言うことはない。

日本人というものは、平和ぼけしていると世界中で馬鹿にされている。ヨーロッパを旅して目にする日本人は、高級なブランドを買い漁り、所構わず写真を取り捲り、店員や町の人々に冷ややかな目線を注がれている。
その国の文化を尊重することなく、何処へ行っても日本にいるかのように彼らは振る舞いつづける。僕は―恥ずかしくなりながら、―彼らと距離を置く。
島国根性なのか、時代的なものなのか。そうした人々が、わけもわからず全身を同じブランドの衣服に身を包み、歴史的な絵画を前にして、カメラのフラッシュを焚いたりしている。
やれやれ、と僕は思う。それもこれも、きっと彼らに共通した無関心さ、なのだ。

僕は毎日のように東京の―それも銀座あたりを―人ごみを歩きながら、日本人の目は不思議に死んでいると思う。その目の奥には輝きというものが殆どない。よどんでいる。
もちろん全員がそうであるということではない。でも100人の人間とすれ違っても、綺麗な澄んだ眼をした人々は圧倒的に少数である。そうした目を隔てているのは何かということは僕にも分かる。

世界中でこれほど目が死んでいる民族は、他に類を見ない。日本より遥かに貧しい世界の子供の目ですら、不思議にきらきらとしている。そこには間違いなく何かがある。
僕は、東京の街を闊歩する人々の目を見ているとー見ないわけにはいかない―かなり疲弊してくる。彼らは何も見ていないような遠いぼんやりとした目をしていて、そこからは何一つ伝わってこない。
彼らは、恋人に(あるいは自分自身に)夢中である。そして、恋人以外の、赤の他人に対して徹底的に無関心である。その無関心さが僕を苛立たせる。恥ずかしいと感じさせる。
彼らに本当の恋愛が出来るだろうか?と僕は思う。あんなものは盛りのついた犬にしか見えない。しかし、それは結局は他人のことだ。どっちだって良いことなのかもしれない。
彼らは彼らで僕は僕である。それだけのことだ。

そのようなことを考えていると、果てしなく暗い気持ちになってくる。
僕は、ひどく疲れてくる。そして、そろそろ下山すべきだな、と思う。

比叡山延暦寺、僕が最後に目にしたのは、日本中の観光地に何処にでも現れる騒がしい餓鬼どもの姿である。
言葉がついつい悪くなってゆく。
とにかく、まあ、そろそろ街に戻って、まともな宿でゆっくりしたいと思う。

<京都~滋賀~奈良への紀行 第一章・了>
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by waterkey | 2006-07-31 20:27 | 旅行記



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