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気配
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山あいの深い緑の道を走りながら、僕は暮れかけてきた空を確認するみたいに何度か見上げてみる。高い木々が密立している風景を眺め続けていると、ふと、山というものは本質的に我々が来る場所ではないんだな、という気分になってくる。
山というものは本当は厳しいものであり、中途半端な覚悟で遊び感覚で来る場所ではない、とそのように濃い山道の蒼さは僕を少し緊張させる。
風景は走るほどに深まっていく。もし、車を下りて荷物一つ持たずにあの木々の中に入ってゆけば無事に戻れることはあるまい、という漠然とした恐怖を感じる。
携帯電話のアンテナはもちろん圏外を示している。周囲は恐ろしく静かである。でもその静けさは暗闇で目を光らせる生物たちの存在を逆に感じさせる。
静けさ、というものはその対比にある殺気立った気配のようなものと殆ど同義である。
森は彼の場所であって、我々の場所ではない、ということを僕は感じる。
でも、さらに高地へと進んでいくと我々を包むのはもはや、そうした動物たちの発する沈黙の重たさの問題ではなくなってくる。そこを支配しているのは、もっと無機質な種類の生物である。いや、それは正確に言えば生物ではない。彼らは目を持たず、口を持たない。でも耳だけははっきりと研ぎ澄まされている。そうした耳を圧迫する類の重たい沈黙を僕は感じる。
そう、森というものは、あるいは山というものは本来、我々の来る場所ではない。

比叡山延暦寺はそうした、山の深い場所に位置している。
観光客は琵琶湖方面からバスに乗って、そこを目指すことも出来る。バスガイドの―実際の乗ったわけではないので、これは推察に過ぎないが―、熱心な説明を聞きながら、のんびりとした気分で、その風景を楽しむことだって可能だ。
でも、それは舗道の上を進む“作られた”ルートに過ぎない。
“彼ら”ーあるいは気配のようなものは、そうしたアスファルトの道を嫌う。彼らは僕らの日常的な規定や原則とまるで別のコンセプトによって、行動をしている。
僕らと彼らはその成り立ちがまったく違うのだ。

比叡山延暦寺は年間何千人もの観光客が訪れる名所である。しかし、その場所にある“気配”はその辺のお寺のそれと明らかに違う。
何が違うのかと言われても適切な言葉はない。でも、それは空気の問題である。
時間が経って、記憶は薄れ、情景は奪われるだろう。でも空気だけは体内にずっと残りつづける。そして、そこにあるのはそうした空気の質の問題である。
僕はここに着いて、すぐにそう思った。ここは他の場所とまったく違うんだ、と僕は思う。
漂っている空気が別物なのだ。
そう、とてもシリアスなのだ。冗談が利かないのだ。張り詰めた緊張感がそこを訪れるものに感応し、僕らを緊張させているのだ。
もちろん、感受性の問題もある。好き、嫌いもあるだろう。でも、ここを訪れた人は確実に何かを感じることになる。とてもシリアスでリアルな濃厚な空気を。
僕はまず入り口で―そこには、観光客相手の切符切りさえいるのに!-、そのような感じを受けることになった。
ここから先は、ふざけている場合じゃないんだ、と僕ですら思った。
もちろん、時代は変わった。この場所がかつてそうしたシリアスな人々の聖地であった時代は過ぎ去っている。でも、やはり空気が残っている。濃厚に、真面目に、ちゃんと残っている。

僕は襟を正すような気持ちでー実際はTシャツを着ていたわけだがー、中に入った。
そして、そこにある空気を目を閉じて深く吸い込んでみた。
僕は、長い間、この場所に呼ばれていたんだ、というような奇妙な感覚を感じた。生まれて初めてそのような感覚を感じた。そして、僕は不思議にリアルな気持ちになっていった。
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by waterkey | 2006-07-26 22:37 | 旅行記



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