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沈黙の理由
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1997年。
僕はある友人と、大学のキャンパスの中の草むらに寝転んでいた。
僕と彼女は、同じ授業をとっていたのだが、話し込んでいるうちにいつしかチャイムは鳴り、授業は既に始まっていた。
それは、厳しくて有名な教授の中国語のクラスで、その授業をロスすれば、僕らはもはや現実的にその学期、単位を取得することは不可能になるということが分かっていた。
もちろん、遅刻して授業を受けに行くという選択肢もあった。
しかし、結局、我々は授業をボイコットすることに決めた。
僕の単位をロスすることより、彼女の話の方が深刻だったということもある。

彼女は、実家の都合でその学期の終わりには大学を事実上、退学して故郷に帰るのだ、と僕に語った。彼女と僕は入学式で出会った。僕が彼女に鉛筆を貸した、とかそういう程度の何処にでもある出会いだったけれど、二年生の秋が深まるころ、僕らは親密な友達になっていた。

彼女は無口な人で、クラスの殆どの連中と碌に口も利かないようなところがあったけれど、何故だかは知らないが僕に対してはいつでも心を開いてくれた。
僕もまた、心を開く相手はいつでも限られていたし、集団行動よりは自由な個人活動を好むタイプで、僕らは結局何処か似ていたのだと思う。
見上げると目がちくちくと痛くなるような高すぎる秋の青空を、僕らは寝転んで見上げながら、少ない言葉で言葉を交わし、本当の気持ちを語ろうと懸命になっていた。
彼女のことを慰めたかったけれど、結果として僕の方が慰められてしまった。
一隅を照らす、という言葉を彼女は教えてくれた。
それが仏教の言葉であるということも、どういう意味の言葉なのかも僕は知らなかった。

僕はただ、10代の終わりからずっと心の何処かでその言葉を反芻し、絶えず咀嚼し、いつしか“自分の言葉”にした。
キャンパスを去る日、僕は彼女にキーホルダーをプレゼントした。
彼女がそれをずっと欲しがっているということを知っていたからだ。

その日から、僕と彼女は二度と会うことがなかった。
いつか会うような気がしていたけれど、大分時間が過ぎてしまった。
でも、僕は―少しばかり感傷的な気持ちで―あの秋の空の色をぼんやりと思い出す。
彼女と僕の不器用なコミュニケーションを思い出す。
僕は今ではこう思う。あれは特別な種類の感情だったんだ、と。
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by waterkey | 2006-07-23 22:00 | 旅行記



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