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近くにある場所
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京都に行ってくるよ、と旅行の前、僕は何人かに声を掛けた。
可笑しなことに、彼らの返事は言葉は違えど、殆どが共通の語感を持っていた。
それらは大別すると全て『なぜ、京都なんですか?』ということだった。

そう、もちろん、僕は長い休みを取って他の場所に行くことも出来たと思う。
昔から、ふらっと気が向いて何処かへ出かけたように。
そして、その当時の旅は全て、遠くへと移動することに中心的な役割があった。
いま、踏みしめている大地から遠く離れることに僕は意味を見つけていたから。

20代にかけて、その長い間、僕は日本的なるものに対して、ずっとアレルギーを持っていた。
いや、それはアレルギーを持っていたなんて簡単なものでは決してなかった。
はっきり言えば毛嫌いしてさえいた。
そして、そうした“日本的なるもの”に対する嫌悪感で僕の20代の行動は決定されていた。
努力崇拝主義、非効率さ、非合理性、組織的な規範、右に習え的な発想、遠まわしな表現、ネゴシエーション、段取り主義、マニュアル的発想、暗黙の了解、際限のない合意の確認
(ねっ、本当にいいんだよね?、本当だね?約束だよ。間違いないね???)
、足の引っ張り合い、ウエットな関係性、白々しい会話、表層的な言葉のやり取り・・・etc。

もちろん、それらは何処に行こうと別な顔をして、別な言語を用いて僕らに絡み付いてくる。
メキシコに行こうとも、カナダに行こうとも、トルコに行こうとも、スペインに行こうとも僕が
目にしてきたのは結局は違う言葉で表現される同種の物事に過ぎない。
しかし、そうした諦めを持つには僕は若かったし、今以上に傲慢だった。
少しでも遠くへ行けば、そうした日本的なるものの触手から遠のくことが出来るような錯覚を
僕は抱いていた。

新しい場所に行くこと、新しい価値感を得ること、それにより、新たなパースペクティブを獲得することが出来れば、そんなものは(おい、お前、あんまり自分勝手なことするなよな??)
そこには、存在すらしていないかのように生きていくことが出来るのではないかという幻想を抱いて、僕は色んな“道”を彷徨ったのだ。

僕は今でも、そうした日本的なものが好きではない。
僕はおそらく、特殊なのだろう。あるいは社会性に問題があるのだろう。

でも、僕はある日こう思った。
“どれだけ遠くに行こうとも僕らが目にするものは膨大なる自分の影に過ぎない”と。
そして、もしかすると僕が本当に逃れようとしていたのは日本的なものではなく、自らの足元に纏わりついた影ではないかと思うようになった。

そして、こう思った。
近くにあるものから、新しい価値観を得ることは出来ないのだろうか?
自らの内部の遠心力に振り回されて俺は随分遠くへ行ったけれど、それは正しい行いだったのだろうか?
僕はそれを再検証するために、なんとなく、ぼちぼちと写真を撮ることにした。
もう一度、色んな身近なものを見直す必要性を感じた。

僕はどうして京都なんですか、という問いに対して、比較的イノセントに
『なぜ京都ではいけないのですか?』と問い返すことだって出来る。
しかし、そんな問いは、もはや無意味だということを僕は知っている。
僕は他人にも自分にも“嘘”や“表層的”なものにとても敏感になっているから。

僕は足元を掘り下げるというパースペクティブを獲得しようと思う。
そして、いまの僕に必要なのは遠くへの移動ではなく、足元に置かれた何かの象徴的な
記号である、“円”を跨ぐことにある。

僕はそれで近くに旅をしようと思った。
それは僕が取り囲まれている、ややっこしい状況を客観的に再検証する道であることを
知っていたから。
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by waterkey | 2006-07-21 23:57 | 旅行記



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