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<< 序
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道は無限にある >>
何処かに行きたいという感情。 それは僕の場合、3年に一度くらいの割合で訪れる。 いつでも、それは大きな場所に空いた小さな風穴のように、誰かの風に掻き消されそうな囁きの ように、遠い場所で響く地鳴りのように心の何処かで、ふいに芽生える。 そんな感情に普段の暮らしの中で気づくことはむしろ稀だろう。 大抵の感情がそうであるように、それは泡のように浮かんでは絶えず弾け、消え去っていく。 そうやって僕らはありふれた毎日の中に生じる様々な異質の感情をやり過ごす術を沢山、覚えてゆく。 都市生活者にとって、そのような感情の揺れはさして珍しいものではない。 普通の人間の、普通の生活の中にあっては旅の概念とでも言うべきものは普段は曲がりくねった奥の方の暗がりにひっそりと顔を隠している。 “旅に出たいな” そんな風に思うことよりも僕らは目の前に沢山の課題を山積みにして、それが崩れないようにどうにかバランスを取ろうと目論んでいる。 それでも三年に一度くらい、身を焦がすような旅への欲望を感じることになる。 今より、もっと僕が年若く、目の前の壁がずっと柔らかく、背を伸ばせば向こうを見渡すことが容易であったころ(回りくどい表現だが、偽らざる今の僕の心情である)僕はそのような、旅への欲望に忠実だった。 旅に出るために必要なものは幾ばくかのお金、それだけあれば良かった。 時間の調整も、仕事の調整も(というより文字通り僕には時間は湯水のごとくあったし、仕事なんてそもそも最初から何もなかった)不要だった。 そうして、必要な額のお金を手にすると僕は迷わず何処かへと向かった。 行き先は何処でも良かった。 僕には放浪者としての身分が必要だった。 失った名前を捜し求めるように、見知らぬ土地をほっつきまわることを僕は求めていた。 大人になってからも仕事と時間に都合をつけて旅に出ることはあったが、学生の頃の身を焦がすような旅への欲望はあまり感じなかったように思う。 僕は気の利いた旅行者であり、軽量の荷物とおそらく使い切れない程度にはある、お金をヒップポケットに突っ込むと地図を広げて、行きたい場所を選択する他の“日常的な旅行者”同様に見慣れた場所を後にした。 それはそれで悪くはなかった。 旅行というものは素晴らしいものだ。日常の退屈さに比べると、旅という非日常空間にそれなりの意味を与えることは容易い。 しかし、そのような旅には日常との境界線があまりなかった。戻ってくると同時に日常回帰することがすんなり出来る種類の旅は、もはや旅とは言えない。 帰りのことを頭に入れながら、何処かに向かってもそれは折り返し地点への前進に過ぎないのだ。戻ることと進むことが同義である歩行を誰が冒険と呼ぶだろう? 僕はいまでも旅行者の身を焦がすような欲望を捨て去ることが出来ずにいる。 いま、僕が手にしているもの(それがどれほどのものだと言うのだ?)をすべて置き去りにして何処かへ行きたいと時々思う。 そういう思いは絶えず僕の中にある。 しかし片一方で僕はそうした激しい感情を恐れている。 他愛もない僕の日常には愛着とでも呼ぶべき時間的なつながりが数多くあるからだ。 誰かとの挨拶、軽い冗談、踏み込むことのない適切な関係性、手垢に塗れた仕事や物言い。 そのような日常的断片を僕は愛している。 上手く説明することは出来ないのだが、“こだま”としか呼びようのない物音を僕はある種の旅で耳にすることがある。 ≪つづく≫
by waterkey
| 2006-07-11 23:34
| 旅行記
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