<a href=wata-chrome " />


<< 旅へ (2) | サイコロジー >>
道は無限にある
a0041949_1105973.jpg





その旅は夜行バスで始まった。

世の中には色々な旅がある。
旅行者が旅に求めるもの(何も求めない旅行者などいるだろうか?)の数だけ、旅の種類は様々だからだ。

大学生の頃、アルバイトをしてお金を貯めては旅行にばかり行っていた時期があった。殆どの旅へは、もちろん一人で行った。
僕はそもそも、とても個人的な人間だし、一人は気楽だった。
それは何を見ても何を感じても、最後には個人的に受け止めることの出来た年代だった。
そういう時間はあっという間に過ぎ去っていく。
僕らは大人になると物の見方、感じ方にすら一般性を要求される。
どう思ったか?という問いかけに僕らは常識的な意見を述べることを常に求められている。
“何をどう思うかなんて俺の勝手だ”、そう断言できる時代はとても短い。

時々、誰かと(といっても多くて3人くらいだけれど)一緒に行くことはあっても団体行動というものは、いつも僕にとって何処か窮屈だった。
誰かとの旅は、行動の自由を制限される運命といつも共にある。
誰かと旅に出て、出先で『俺はあっちに行って来るよ』というわけにはいかない。
でも、大分時間が経って、僕が団体行動を苦手としていた理由がおぼろげながら見えてきた。

旅の目的(コンセプト)は一人一人異なっているのだ。

ただ、それだけのことが誰かとの旅について廻る様々なトラブルを生むのだ。
僕らが旅に出る理由はそれぞれ異なっていて、僕らが旅に求めるものも、やはりそれぞれ異なっている。それは紛れもない真実だ。
求めるもの(=デザイヤー)の違いは行動にも現れる。やがて旅先で僕らはすれ違い始める。
僕らは相手を憎み、うんざりとしながらこう思う。
『やれやれ、これだから団体行動は苦手なんだ』

でも、僕はその頃よりずっと大人になったし(もう30だものな)、気疲れのしない友人と旅に出る約束をした。
いや、正確に言えば僕は誰かと旅に出たいとすら思っていたのだ。

僕が友人に主張したのは『夜行バスで行きたい』ということだけだった。
とてもシンプルだ。他に何も要求はない。

かつて時間を見つけると旅ばかりしていたその当時、幾つかの旅先で目にしたものを僕は今でも鮮明に覚えている。
旅先で僕はいつでも不思議な“こだま”を耳にした。
あれは何だったのだろう?
旅に向かう心的状況。そういうものがあるとすれば僕はいつでも旅行者の心境に近い心持ちをもった人間なんじゃないかと今でも思う。

2006年7月。京都、滋賀、奈良をとことん歩いた。
最後に強い虚脱感が僕を襲った。
虚脱感(それは半端なものではなかった)の中で僕はふいに一人になり、あの不思議で雄大な“こだま”を再び耳にしていた。
旅先でだけ聞こえてくる、あの“こだま”。
[PR]
by waterkey | 2006-07-10 19:25 | 旅行記



Creative Commons License
This weblog is licensed under a Creative Commons License.