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夢から醒めて
通い合った心が醒めて、元の鞘におさまるように、すれ違い、離れていく瞬間はもちろん
苦しい。
そういう経験はするほど良いのか、出来れば、なるべく数少ないところで神様に手を打って
もらうのか、どちらが人間にとって素晴らしいのか僕にはよくわからない。
でも僕らは「いま、心が触れ合っている」と感じることができるし、「相手の(あるいは
自分の)心が離れていっている」と感じることもできる。
男女の恋愛について、僕はこれだけは男女はそれを共有し、分かり合っていると思う。
いま、心が通い合っている、という幻想は幻想ではなく、やはりある種の現実である。
自分が相手のことを考えているとき、相手から連絡があったり、そういう時って心の中が
満たされて、「自分にとって大切なものは案外少ないのだ」と実感することができる。

自分の心が醒めたり、相手が他の場所を向いているとき、なるべくならば夢から醒めたくないと
思う。けれども、その時にはかつて共有し、心を満たした、あの感覚はすでに過ぎ去っている予感
がある。
言葉が祈りみたいに響くとき、それは自らの心をまた満たす。そのような感覚の中にいるとき、
不思議と寂しさというものは癒され、通りを歩く時にも自分の心の世界の中にいて、すれ違う
他人になど関心も向かない。

ある日、恋人の心が自分と離れていっていることを知る。そういうのって、どういうわけだか
すぐわかるのだ。昨日、心を震わせた言葉がむなしく響く。交わす言葉に味わいがなくなる。
相手が醒めれば自分も醒めてゆく。そんなの愛じゃないとか言う人もいるかもしれない。
でも、僕にとって、夢とは「いま、心が触れ合っている」と感じ、何かに守られているような
魔法のようなあの感覚でしかない。

人の心は相手次第で膨らんだり、しぼんだり、閉じたり、開いたりする。
時には相手が熱く、時にはこちらが熱くもなる。でも「あぁ、終わった」というのだけは
別物だと僕は思う。
それは努力や、辛抱だけではなかなかどうしようもない感覚だったりするのだ。

かつて自分を励まし、慰撫してくれたもの。
あるいは自分がかつて励まし、慰撫しようとしたもの。
その間にお互いの存在がたとえ一人の夜にでも、何かに守られているような感覚というのは
寂しさを根本から癒してくれる。
人間はそんなにたくさんのものはいらない。大切なのは、自分を励まし、慰撫してくれるもの
を自分もまた励まし、慰撫しようと思う慈しみだけなのだ、と僕は思う。

雨降りの日にも似た生暖かい優しさの記憶は、過ぎ去る瞬間、心を刻む。
それは、魔法が解けて夢から醒める時、いつでも同じように僕を悲しくさせた。
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by waterkey | 2010-09-13 22:17 | 文章



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